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ブックマーク / okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com (2)

  • 按司たちのヒマつぶし - 目からウロコの琉球・沖縄史

    「琉球の戦国」といえるグスク時代から琉球王国成立頃までの時代、沖縄各地には按司(あじ)と呼ばれる首長が割拠していました。按司たちは自らの権力を拡大すべく戦いを繰り返し貿易によって富を蓄積しましたが、その一方で彼らは遊びにも興じていたようです。 グスクをはじめとした県内の遺跡からはいくつもの遊具や玩具(オモチャ)が見つかっています。例えばサイコロ。古いもので14世紀(三山時代)の出土例があり、石や動物の骨などで作られています。駒(こま)石というボタン状製品も出ていて、これらは盤双六(ばんすごろく)というゲームで使われたとみられています。 それと面白いところでは中国将棋(象棋)もやっていたようです。首里城からは中国将棋で使う「兵」と「砲」の駒が出土しています【画像・クリックで拡大】。時期は15世紀中頃(第一尚氏時代)のもので、磁器製の高価なものです。そのほか囲碁の石や素焼きの独楽(コマ)なんか

    按司たちのヒマつぶし - 目からウロコの琉球・沖縄史
  • 尚徳王=倭寇? - 目からウロコの琉球・沖縄史

    尚徳王は第一尚氏王朝最後の王です。この王は別名「八幡之按司」という神号であり、1466年、自ら兵2000を率いて喜界島を征服した際、その勝利を記念して那覇の安里に八幡宮を建立しています。尚徳王が八幡を信仰していたことから、彼が倭寇の流れをくんでいるという一部の説があります(ナ、ナンダッテー!)。「八幡神は倭寇の守護神である」との理由からです。この説は妥当な説なのでしょうか。 結論からいうと、この説には疑問を持たざるをえません。倭寇うんぬん以前に、八幡神が来持っていた性格を看過しているからです。それは八幡神の「軍神」としての性格です。 尚徳王がなぜ八幡宮を建立したのか。喜界島に遠征する前、尚徳王は八幡大菩薩に一矢で鳥を射たら遠征成功、はずれれば失敗と願をかけ、見事に射落としました。やがて鳥を落とした地に八幡宮を建て、弓矢・甲冑・鐘を奉納したのが始まりです。つまりこの由来譚からわかるように、

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    holyagammon
    holyagammon 2009/12/04
    チャンプルーだな
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