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ブックマーク / realsound.jp (9)

  • 隈研吾が語る、20世紀的な建築からの脱却 「新しい時間の捉え方が必要なのかも」

    建築家・隈研吾が、2020年2月に書き下ろしの新刊『点・線・面』(岩波書店)を上梓した。近年、国立競技場や高輪ゲートウェイ駅駅舎など、多くの人々の注目を集める建築のデザインに携わっている隈研吾が、人と人、人と物、人と環境をつなぐ思想と実践を語った新しい方法序説だ。自ら“ヴォリュームの解体”と呼ぶその方法論は、どのように培われてきたのか。また、金融資主義的な“XLサイズ建築”の先に、どのような建築の未来を思い描いているのか。新型コロナウイルスによる外出自粛要請が発令される直前、隈研吾建築都市設計事務所にて行ったインタビューをお届けする。聞き手は、ライターの速水健朗。(編集部) 『負ける建築』から『点・線・面』へ ーー今回の『点・線・面』は、現代建築へのシニカルな批判も含む建築批評であり、かつて『10宅論』(ちくま文庫/1990年)など若き辛口批評家だった隈研吾が戻ってきたという感触でした。

    隈研吾が語る、20世紀的な建築からの脱却 「新しい時間の捉え方が必要なのかも」
  • 映画館の“良い席”ってどこだ? 座席選びから見える鑑賞者の人生観|Real Sound|リアルサウンド 映画部

    東京は立川にある独立系シネコン、【極上爆音上映】等で知られる“シネマシティ”の企画担当遠山がシネコンの仕事を紹介したり、映画館の未来を提案するこのコラム、第34回は“映画館の良い席ってどこだ?”ということについて。 「良い席、まだ空いてますか?」 お客様からそう聞かれるのは、映画館スタッフあるあるのひとつ。聞かれたスタッフは「良い席なんて人それぞれだからなあ」と思いつつ、混んでいるときなら、たいていこんな答えが返ってくるんじゃないでしょうか。 「今からですと、前の方“しか”空いてないですね」 「ちょっと見上げる席に“なってしまい“ます」 ちょっと待った! 僕は誰一人観客がいなかったとしても、最前列か2列目に座るんだよ。見上げる席って、そもそも映画は見上げるもの、それが作品への敬意の表し方。『ニュー・シネマ・パラダイス』で主人公のトト少年がスクリーンを見下ろしている画なんか、様にならないでし

    映画館の“良い席”ってどこだ? 座席選びから見える鑑賞者の人生観|Real Sound|リアルサウンド 映画部
  • 『関ジャム』プロデューサーに聞く、“マニアックでポップ”な音楽番組の作り方

    音楽の魅力を広く伝えるメディアとして、大きな機能を果たすテレビ音楽番組。CD全盛期に比べて番組数が減少する中、それぞれ趣向を凝らした番組づくりが行われている。そんななかでも一際目立つ番組をピックアップする連載『テレビが伝える音楽』。第二回では『関ジャム 完全燃SHOW』(テレビ朝日)で演出・プロデューサーを務める株式会社テレビ朝日・総合編成局第1制作部の藤城剛氏を迎え、同番組が立ち上がった経緯や、マニアックな視点をポップに伝えるための工夫、なぜ斬新な切り口を毎回提示できるのかという部分まで、じっくりと話を聞いた。(編集部) 「『Mステ』とは違うやり方で『ゲストの何が凄いか」を提示したい」 ーーまずは藤城さんの経歴について教えてください。 藤城:僕は『関ジャム 完全燃SHOW』(以下、『関ジャム』)に携わるまで、音楽番組に関わったことがなかったんですよ。入社してすぐ『金曜★ロンドンハーツ』

    『関ジャム』プロデューサーに聞く、“マニアックでポップ”な音楽番組の作り方
  • ダフト・パンクのグラミー賞パフォーマンスは、なぜ“歴史的事件”だったのか

    今年のグラミー賞で、なんといっても最大の話題を集めたのはダフト・パンクだろう。もちろん主要2部門含む5部門制覇という受賞結果も快挙だが、音楽ファンにとってその何倍ものインパクトと感動を与えてくれたのが、当日の彼らのライブパフォーマンスだった。そもそも、ダフト・パンクがテレビに出演するのはこれが6年ぶり(2008年、同じくグラミー賞でカニエ・ウェストのパフォーマンス中にサプライズ出演して以来)。ライブ自体も、4年前に盟友フェニックスのニューヨークでのライブにサプライズ出演したのが最後。昨年も、『ランダム・アクセス・メモリーズ』リリース直前に開催されたアメリカのコーチェラフェスティバルや、何故かオーストラリアの田舎町で行われた世界最速リスニングパーティーに姿を現すのではないかという噂が世界中で飛び交ったが、結局現れることはなかった(なのに、同時期に開催されていたF1のモナコ・グランプリのピット

    ダフト・パンクのグラミー賞パフォーマンスは、なぜ“歴史的事件”だったのか
  • 「小室哲哉は地方のマーケットを見抜いた」速水健朗がJPOP激動期としての90年代を分析

    TRF『TRF 20th Anniversary BEST SINGLE Collection × EZ DO DANCERCIZE (ALBUM+DVD)』(avex trax) 先日、新著となる『1995年』を出版した速水健朗氏。同書では戦後史の転機となったこの年の出来事を政治・経済・社会・文化と「横に読むこと」に試みている。前回のインタビュー『速水健朗が語る"1995年”の音楽シーン「中間的な領域に面白い音楽がたくさんあった」』では当時の東京における音楽シーンについて語ってくれた彼に、今回は地方の状況とヒットチャートの関わりについての話を中心に訊いた。 ――1995年に最も売れたシングルはDREAMS COME TRUEの『LOVE LOVE LOVE』でした。 速水健朗(以下、速水):ドリカムは出てきたときと売れてきたときで印象が異なる存在で、「うれしはずかし朝帰り」で出てきた時は

    「小室哲哉は地方のマーケットを見抜いた」速水健朗がJPOP激動期としての90年代を分析
  • 速水健朗が語る"1995年”の音楽シーン「中間的な領域に面白い音楽がたくさんあった」

    2007年に『タイアップの歌謡史』で単著デビューを果たし、専門のメディア論や都市論のみならず音楽や文学、格闘技など幅広い領域を独自の視点で鮮やかに描き出す気鋭のライター、速水健朗。そんな彼が先日ちくま新書より最新作『1995年』を刊行した。1995年といえば阪神大震災やオウム事件といった歴史的惨事が起こる一方、ウィンドウズ95の発売などでインターネット元年とも呼ばれ「何かの終わり」「何かの始まり」と形容される年。戦後史の転機とも言われる1995年は音楽シーンにとってどんな意味をもった年だったのだろうか?  地元の新潟から上京し大学生だったという速水氏に当時のシーンを振り返りつつ、改めて論じてもらった。 ――新書の『1995年』の中でも、当時のJPOPについて書かれています。 速水健朗(以下、速水):1995年は、JPOPの全盛期なので当時のヒット曲の分析とかを割と紙幅を割いて書きました。ド

    速水健朗が語る"1995年”の音楽シーン「中間的な領域に面白い音楽がたくさんあった」
  • 「ポップの本質は一発芸だ」J-POPを創った男=織田哲郎が明かす“ヒットの秘密”

    作曲家としてZARD、DEEN、大黒摩季、相川七瀬、AKB48などに楽曲を提供する一方、ソロアーティストとしてもヒット曲を数多く世に送ってきた織田哲郎。いわば“J-POPのオリジネイターの一人“である彼が、前作『One Night』以来6年ぶりのソロアルバム『W FACE』を10月30日にリリースする。ロック色の強い「RED」盤とアコースティック曲中心の「BLUE」盤の2枚からなる作は、30年にわたるソロキャリアを集大成したような多面的なアルバムだ。そのリリース直前に行ったインタビュー前編では、稀代のヒットメイカー=織田哲郎の音楽哲学を探った。 ビートルズで言えばポップなのはジョン・レノン。ポール・マッカートニーは職人だった ――ご自身の作品でも、また提供曲でも、数多くのヒット曲を世に送り出してきた織田さんですが、これまで何曲くらい作りましたか。 織田:自分のアルバムの200曲くらいも入

    「ポップの本質は一発芸だ」J-POPを創った男=織田哲郎が明かす“ヒットの秘密”
  • “ハード・ロック”だけでは語れない レッド・ツェッペリンのあまりにも広大な音楽世界  - Real Sound|リアルサウンド

    今回は70年代ロック最大の大物グループ、レッド・ツェッペリンを取り上げます。2007年に行われた再結成ライヴの模様を収めたDVD『祭典の日』が昨年リリースされ、大きな話題になったのは記憶に新しいところです。 Led Zeppelin – Celebration Day Trailer(2012) 昔からのファンの感想はおおむね「思ったよりよくやっている」というものだったと思いますが、やはり70年代、オリジナル・ドラマーのジョン・ボーナム在籍時が彼らの全盛期だったことに疑問を差し挟む余地はないでしょう。 さてレッド・ツェッペリンは、英国の名門グループ、ヤードバーズの3代目ギタリストだったジミー・ペイジが、当時まったく無名だったロバート・プラント(vo)、ジョン・ポール・ジョーンズ(b)、ボーナムに声をかけ、1968年に結成されています。当時としては破格の20万ドルでアトランティックと契約。フ

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  • FMラジオから歌が消えた? 音楽よりもトークが多く放送されるようになったワケ

    長らく音楽リスナーの貴重な情報源であったFMラジオ。バグルスが「Video Killed the Radio Star(ラジオスターの悲劇)」をリリースしたのは1979年。テレビ音楽番組の台頭によるラジオの地位低下を憂いた曲であったが、その後も良質な音楽を得る術、とりわけ新譜をいち早く視聴できるメディアとして、FMラジオは重要な役割を担ってきた。しかし今、そんなFMラジオにある変化が起きている。 現在、東京で聴取できる民放FM局はTOKYO FM、J-WAVE、InterFM、それに神奈川のFM YOKOHAMAと埼玉のNACK 5、千葉のbay fmを加えた計6局。しかしいずれのチャンネルにダイヤルを合わせても、聞こえてくるのはパーソナリティのトークが中心で、音楽は申し訳程度に添えられているだけ。新譜情報やレコメンドミュージックといったコーナーの多くは姿を消し、なかにはお笑い芸人をパー

    FMラジオから歌が消えた? 音楽よりもトークが多く放送されるようになったワケ
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