先の「経済成長平均2%仮説を少しばかり考えてみた - WATERMANの外部記憶」について色々と考えをめぐらしているのだけど、なかなかまとまってくれないので取り合えず断片的なことだけ書いてみようと思う。 経済成長するということは物入りになるということである。 50年前には固定電話を引いている人すら少なかった。 現代は誰もが携帯電話を持っている。 多くの「財」は、無くてもなんとかなる。 人類が1000年前2000年前の生活に戻ることは不可能ではないが、単に、短い寿命、飢え、疫病、圧制、略奪といった苦しみを甘受できないだけである。 多くの財は「必要のため」というより「幸福に生きるため」に求められる。 ユニクロで十分という人もいればユニクロでは我慢できないという人もいる。ユニクロで十分に幸福な人がユニクロでは我慢できない人を贅沢者のように見るのは間違いである。 多くの人に受け入れられる品は誰にも
私が、民主主義の根本の問題のひとつとして考えられると思っていることは、民主主義とは衆愚制の危険性をはらんでいるのではなく、常に何割かの衆愚性を抱えておりそれを正すことは誰にもできないということなんである。 どういうことかというと、たとえばこれだ。 池田信夫 blog : 民主党の意図せざる革命 最大の収穫は、次世代スパコンの凍結である。始まって2年以上たち、建屋もできたプロジェクトを「見直す」という結論が出たことは画期的だ。国内最高速のスパコンが3800万円でできる時代に、それと大差ないマシンに1200億円もの税金を投入することは正当化できない。 スーパーコンピュータと核兵器と私 : 金融日記 ※こっちは引用が面倒くさいので引用はしない。 どういうことなのかというと、国家が思想の自由を保障した時点で、どれだけ馬鹿馬鹿しい情報、間違った情報であっても、繰り返し言い続け最後まで主張したほうが勝
最近忙しくてちょっとだけ。 2009-11-11 ちきりんが思うには、日本は他の国々より全体に「諦めるのが遅いのではないか?」と。そして「それが不幸の元ではないか?」とも思ってる。早めに諦めた方が人生が楽なんじゃないかと思うのよ。 これは単に、日本が平成バブル崩壊以降の長期停滞によって、誰にも「本来得られるはずのリターン」と「実際に得られているリターン」に乖離が生じている為ではないかと思うである。 これは飯田泰之先生の書かれた「脱貧困の経済学」でも触れられていたのだけど、バブル以前であれば一介の労働者に過ぎなくても、例えば店を持って独立するとかそうでなくてもそれなりに昇給して仕事を勤め上げられるというストーリーが存在していた。 ところが、そのストーリーが崩れてしまったのがバブル崩壊以降の長期停滞なわけ。 ちきりんさんは身の丈に合わせた人生が重要って言っているけど、そもそも身の丈に合わせてし
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