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ブックマーク / d.hatena.ne.jp/nisemono_san (11)

  • グッバイ連帯 - たいしゅううんどう

    来、彼らにとって彼女たちは売り物である。それは分かっていると思いたい。しかし呆れたもので、彼らは彼女たちの断罪人としてしか働こうとしていない。タレントを管理することができない自分たちを棚に上げるために、タレント自身に全責任を負わせているのだ。それは間違っている。アイドルとは虚像であり実際のところ人間なので、その枠からはみ出した行動を取ろうともするのが当たり前である。それが華やかな舞台の上に漏れ聞こえないようにするのが会社の役割である。アイドルとして恥ずべき様をとった者を首にするのが仕事ではないのである。 今や会社は、加護亜依に関する一連の騒動は彼女自身の過失でしかないと思わせようとしている。ひどいものだ。彼女が実生活で誰と付き合おうが、喫煙をしようが、アイドルという虚業においてはそんなことはどうでもいいのである。そして、それを写真に何度も撮られるような状況を生んだのは間違いなく彼女だけの

  • だらだらとした生活が最高の復讐である - たいしゅううんどう

    真面目に復讐を考える「そういえば、今日もあかねに臨時スタッフとしていたんだけど、とある人と過去16年間を振り返ろうみたいな話をしていて、思い出したことがあるんだよね。思い出したことというのは、俺の大学時代の話でもあるんだけれども、俺はとあるサークルに所属していたんだよね。で、そのときのサークルの先輩というか、OBがやたら頭のおかしい人で、けっこういじめられていた記憶があるんだよね。そのとき、頭がおかしくなっちゃってね。二年生のとき、ずっと夜起きてコンビニ行って、そして引きこもるって生活をやっていたのね。で、一時期から電気代とかガス代とか払えなくなっちゃったりして、で、近くのスーパーにある100円均一でろうそくとか買い占めたりしていたわけよ。その理由というのを隠しても仕方ないんだけど、パチンコとかスロットにはまっていて、それが原因していたってのもある。ここでなんかへたなパチプロもどきみたいな

  • 「好運にめぐりあえなかった金持」のためのエチュード - たいしゅううんどう

    「好運にめぐりあえなかった金持」。確かにそうだ。世界を来自分のものだと信じ込んだ人間、ところが世界は他人たちのもので、自尊心が傷つけられるものだから、世界を粉々にしてやろうと思いたつ人間、「好運にめぐりあえなかった金持」こそが、ラディカルに観念を疎外するのである。「好運にめぐりあえなかった金持」が地下室の住人の質だ。地下室の住人は、なにもかもが愚劣で無意味だと地上の世界を非難する。しかし同時に地上に対して卑劣なあこがれを抱き、この感情をもてあましているのが地下室の住人なのである。彼は考える。どうせ地上に出られないものならば、地上などは炎のなかで滅びてしまうがいい……。(『テロルの現象学』,笠井潔,1993,ちくま学芸文庫,p071-072)ぼくときみとヘーゲル笠井潔氏が、いわば既に「終わりつつ議論」――だが幽霊的に回帰してくる議論として――セカイ系を如何にして議論しているのか、私は知る

  • どっちころんでも労働 - たいしゅううんどう

    昼頃に近くの家のとんかつ屋で衣をパリパリっていると、ラジオから団塊の世代の話が聞こえてきた。その内容は「仕事を定年したあとも、仕事を続けたい」という話であっで、その話を聞いた途端に、次の話を思い出してなんだかしんどくなってきた。さらに、彼女はcali≠gariの青(ゲイであるとカミングアウト済。画像が無いのが悔やまれる)という人をカリスマ視しており、ゲイである彼の為に気で性転換まで考えていたと豪語していた。青のコスプレをした彼女は有名で(2ちゃんにさらされたとか言ってた)、ワイドショーかなんかの取材も受けたことがあるらしい。人曰く、「あのころの私は一番輝いていた」そうだ。どこまで当か分からないけど。で、僕がこのコラムを読んで思ったのは、彼女(彼)等がそのように振舞えるのは、「空中キャンプ」で語られる視点のように、周囲の人達の緩やかな保護と肯定があるからだという構図にいつか気がつかな

  • 異常と正常に関するメモランダム - たいしゅううんどう

    ■[複数の私による会話][僕らの時代捏造計画]異常と正常に関するメモランダム ○:どうも ●:どうも ○:……またこの形式か ●:この形式だと、ろくすっぽ考えずにエントリをあげることができるので。 ○:いままでのエントリが考えられてきたもののようには思えないけど。まあいいか。 マトモであるか/ないかは相対的な問題 ●:……とりあえず、最近考えることのひとつとして、実はマトモであるか、ないかということの判断基準というのはそれほど明確ではないっていうことなんですけれども。例えば心の問題なんかはそうですよね。どういうことかといいますと、誰かが異常であるかないか、というのは実は診断結果というか、そういうので「決定する」のであって、そうではないという気もします。 ○:んー、それは乱暴な考え方だよね。いくら相対的だとはいえ、人たちにとっては、それは相対的な問題ではなく、絶対的な、いわば引き離せない問

    microtesto
    microtesto 2007/01/19
    不幸な意識についての覚書。ニート利権の功罪。個人的には功は無いと思うけど。
  • 《転移》の資本主義 - たいしゅううんどう

    ■[21世紀の怪文書]《転移》の資主義 20:47 精神分析において、転移という概念がある。転移とは、簡単にまとめてしまうならば、何かしらの権力関係を愛憎関係と錯覚してしまう現象のことを指す。そして、この関係は、いわばある解決するべき対象ではない場所へと差し向けられる。この転移は、精神分析的に述べるならば、幼年期における家族関係の反復である、ととりあえず述べられる。そして、転移は陽性と陰性があり、前者が好意的な感情を持ち、後者が憎悪的な感情を持つ、とされている。具体的な事例としては、教師と生徒の関係、ロックミュージシャンとファンとの関係など例をあげることができるだろう。 私は精神分析のことを詳しくは知らない。上記のまとめを、とりあえず私たちは正確な精神分析の「転移」の言葉とは分断して《転移》と指し示しておく。 資主義の基関係 取りあえず、我々の社会が資主義であることを否定する人々は

    microtesto
    microtesto 2007/01/16
    >>資本主義のエートスはプラグマティズムである。…うーん。
  • 《疎外》のために - たいしゅううんどう

    《社会》と《個人》《個人》を一つの構成要素として、《社会》を構成要素の全体的把握として考える。構成要素の全体的把握とは、すなわち、《個人》と《個人》の間に、何かしらの関係性があることを認めることだと定義する。しかし、だからといって《個人》と《個人》との間に関係性があることが即、《社会》の把握になることはない。なぜならば、そこには《社会》が実体化される必要性がないからだ。目の前にあるのは、《個人》でしかありえないし、あるいはただのっぺりと広がる《環境》であるかもしれない。あるとき、私は具体的な個人から、抽象化された個人へとつながる。前者を{a}とし、後者を{a,b,c...n}とした全体的集合体としておこう。抽象化された個人に何かしらの法則性があることを見出す。抽象化された個人の法則性、これをとりあえず、漠然とした形として《社会》とよぼう。そのような《抽象的な個人》を貫く法則性。しかし、《抽

  • 「やさしさ」から《やさしさ》へ - たいしゅううんどう

    遂にこの寂しい精神のうぶすなたちが、戦争をもってきたんだ。君達のせゐじゃない。僕のせゐでは勿論ない。みんな寂しさがなせるわざなんだ。――『寂しさの歌』金子光晴上の詩を引用する前に、栗原彬氏は次のような文章を述べる。私は、さびしさのいわば疎外形態と異化形態とがあると思う。前者は、さびしさを閉じた宇宙へ追いこんで結局は自己崩壊や他者の抹殺、すなわち戦争へと導く道である。後者はさびしさを異化すること、さびしさを反抗に迂回化させ、手法化することで、他者に向かって開かれてゆくやさしさへ連動する道である。*1私たちはこのような疎外形態としてのやさしさを「やさしさ」と便宜的に表記することにしよう。この「やさしさ」は多くの場合、もうひとつの倫理命題に支えられているといってもよい。それは「他人に迷惑をかけてはいけません」という命題である。なぜ、この「やさしさ」とこの命題が結びつくのか。われわれはひとつの素朴

    microtesto
    microtesto 2006/12/20
    俗流ニーチェ思想と左派ニーチェ思想の対立の構図。
  • ようこそ、《外部》の時代へ - たいしゅううんどう

    id:anhedoniaさんが戦後の自殺 - 左思右想にて、面白い結果を乗せている。さらに加えて自殺統計を調べた論文がある。『「アノミーの社会学」『社会学評論』vol.55,佐々木洋成,2005,日社会学会』の論文によると、1990年の地域における自殺者の平均偏差の低まりで面白いのは、東京都周辺のいわば「郊外」の部分のほうが自殺者が少なく、東京都の自殺が多くなっている。ここで妄想をたくましくしておくならば、私たちは《外部》の時代に生きているのではないか、といってみよう。《外部》の時代とはなにか。大澤=見田氏は時代を《夢(理想)》、《虚構》の時代へと別ける。その根拠は《現実》という言葉と何が対義語になっているか、という分析によってである。ここで面白いのは《夢》/《虚構》がひとつの連続性をたもちつつも、不連続性を保っているということである。《夢》も《虚構》も、ひとつの可能世界として存立してい

  • 《ディオニュソス化》する身体 - たいしゅううんどう

    このようなブックマークコメントを頂きました。ディオニュソスを称揚するだけではダメだと思うが如何途中まで解答を書いていたら、思ったより電波的な文章になったのでそれはそれで別エントリとして書き残しておきます。メモ《言葉》の使用というのは、大抵は《理念的な読者》に向けて行われます。ラカン風にいうならば《大文字の他者》ということになります。《理念的な読者》に届けられることによって、初めて《言葉》というのが成立する、と僕は考えます(→2005-04-22 - たいしゅううんどう)。ですから、《言葉》と《宗教》の関係性が結び付けられやすいのです。もっと乱暴にいうならば、《理念的な読者》がいるからこそ、欲望の宛先を知ることができるというわけです。そして、昔であるならば、それはマルクスであったわけです。問題は、このような明確な欲望の宛先が存在しないということなのです。こうして、若者は《失語的》にならざるを

  • 《言葉からの疎外》を歓迎する - たいしゅううんどう

    http://blog.livedoor.jp/hesalkun/archives/50597428.htmlこの文章を見て妙に感動した。福岡中央警察署は、わがデモ隊のバカ騒ぎに呆れ果てて交通整理の仕事を放棄!おかげで公安のジジィだけがゾロゾロ20名近くも付いてくるというバカげた事態に。公安のジジィちゃまは「このデモには理念がない」などとありがたーい御意見を披露してくれたそうだが、おいおい、あたりめぇだろ、何が「理念」だこのバカヤロウ、ワレワレは世の中が気にわないから暴れたいだけだ!お前らに何の「理念」があって、我々のめでたいデモに対してあんな馬鹿げた恐喝・介入をするんだ?このゲーム脳が。そういえば、高円寺サウンドデモや秋葉原サウンドデモのときに、同じようなことを呟いた人々がたくさんいたように記憶している。僕がちょっとだけ思ったのは、これらのサウンドデモは(似たような人達がやっているから

    microtesto
    microtesto 2006/10/17
    ディオニュソスを称揚するだけではダメだと思うが如何
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