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religiousとliteratureに関するmicrotestoのブックマーク (7)

  • 『ヒストリエ』 岩明均

    フェロモンボディのボディソープを買いました。  スリミング・セルライト対策のソルト系のボディソープとしてクチコミでも割と評価... 「美白フリークの愛用する6つの日焼け止め」で触れたイプサのプロテクター・デイシェルター・ブライトビジョンをまた買いました。 ...

  • 『死の棘』島尾敏雄 夫婦の「受難」の道行き - あんとに庵◆備忘録

    痛い腹を抱えて眠れぬ夜に読み終えた。 死の棘 (新潮文庫) 作者: 島尾敏雄出版社/メーカー: 新潮社発売日: 1981/01/27メディア: 文庫購入: 7人 クリック: 82回この商品を含むブログ (128件) を見る 思いやりの深かったが、夫の「情事」のために突然神経に異常を来たした。狂気のとりことなって憑かれたように夫の過去をあばきたてる、ひたすら詫び、許しを求める夫。日常の平穏な刻は止まり、現実は砕け散る。狂乱の果てにはどこへ行くのか?―ぎりぎりまで追いつめられた夫との姿を生々しく描き、夫婦の絆とは何か、愛とは何かを底の底まで見据えた凄絶な人間記録。 愛憎は表裏一体。ミホの裏切った夫への憎悪は南国の夜のねっとりとした闇のようにトシオにまとわりつく。殺意の籠るその憎悪の相貌と、ただ一人、夫をのみ見つめ続ける深き愛の相貌と共に、西欧の一月の神のごとく、二つのペルソナが絶えず入

    『死の棘』島尾敏雄 夫婦の「受難」の道行き - あんとに庵◆備忘録
  • 2007-03-29

    梶井基次郎『櫻の樹の下には』 櫻の樹の下には(さくらのきのしたには)は、梶井基次郎の短編小説。主人公が、桜の樹が美しいのは下に死体が埋まっているからであるという空想に駆られ、死体に象徴される惨劇(死?)への期待を深める物語。 この作品は全編に渡り主人公のモノローグという手法で以って描かれる。主人公は一般的に満開の桜の樹に代表されるように心の澄まされる美しい情景の直視に堪えられず、それらに負、即ち死のイメージを重ね合わせる事で初めて心の均衡を得ることが出来ると語る。美しいものと対峙した時、自らが劣等感を負う事を回避せん為にこうした不快を敢えて求めようと云う奨めであると解釈する。(日語版Wikipedia) (青空文庫⇒桜の樹の下には) 梶井基次郎といえば『檸檬』(過去日記)が思い起こされるでしょうが、この「桜の木の下には死体が埋まっている」という言葉も(梶井の名とともにではなくとも)人口に

    2007-03-29
  • 『テヘランでロリータを読む』(3) - charisの美学日誌

    [読書] A.ナフィーシー『テヘランでロリータを読む』(市川恵理訳、白水社、2006年9月刊) 書は我々に「文学と現実の関係」という重い問いを投げかけている。ナフィーシーは、読書会で選んだ作品の作者はいずれも「文学の決定的な力を信じている」(p33)と述べている。そして彼女自身もまた、この点では変わらない。彼女の文学観を示す箇所を見てみよう。「フィクションは現実の複製ではない。私たちがフィクションの中に求めるのは、現実ではなくむしろ真実があらわになる瞬間である」(p13)。「『ロリータ』や『ボヴァリー夫人』は[不愉快な内容なのに]、なぜ我々にこのうえない喜びを与えてくれるのか。・・・どれほど苛酷な現実を描いたものであろうと、すべての優れた小説の中には、人生のはかなさに対する生の肯定が、質的な抵抗がある。・・・あらゆる芸術作品は祝福である。・・・形式の美と完璧が、主題の醜悪と陳腐に反逆す

    『テヘランでロリータを読む』(3) - charisの美学日誌
  • 『テヘランでロリータを読む』(2) - charisの美学日誌

    [読書] A.ナフィーシー『テヘランでロリータを読む』(市川恵理訳、白水社、2006年9月刊) (写真は、書の中国語訳、イタリア語訳、そして著者近影) 書には、ナフィーシーの教え子たちがたくさん登場する。男子学生はほとんどがイスラム主義の活動家だが、女子学生は出身階層も思想もかなり多様だ。イラン革命は最初からイスラム主義一色だったわけではなく、西洋近代主義を目指す党派や、モジャヘディン・ハルクのような左翼も含めて、多様な潮流がテヘランの各大学で激しく覇を競っていた。ナフィーシーと彼女の授業に出た学生たちは、そうした革命の喧騒と興奮のるつぼの中で一緒に「文学を読む」ことになった。そこでは、「文学を読むこと」自体が政治的な意味をもつ痛切な体験であった。 第3部の25、26節は、女子学生ラージーエの想い出に捧げられている。「やせぎすの小さな体、細い顔、梟のような、あるいは物語の中の子鬼のよう

    『テヘランでロリータを読む』(2) - charisの美学日誌
  • 『テヘランでロリータを読む』(1) - charisの美学日誌

    [読書] A.ナフィーシー『テヘランでロリータを読む』(市川恵理訳、白水社、2006年9月刊) 優れたなのでコメントしたい。1995年のある日、イラン人の女性英文学者である著者アーザル・ナフィーシーは、テヘランの自宅に優秀な女子学生だった教え子たちを集めて、ナボコフ『ロリータ』やオースティン『高慢と偏見』などの秘密の読書会を始めた。ナフィーシーは、テヘラン市長の父やイラン初の女性国会議員だった母をもつエリート家庭の出身で、13才からヨーロッパやアメリカで生活し、アメリカで博士号を取って、20代の末にテヘラン大学の英文学の専任教員に迎えられた。それは、1978年のイラン革命直後、1979年のことである。リベラルな彼女は、イスラム原理主義が支配する中で英文学を講じてきたが、1981年、ベールの着用を拒否してテヘラン大学を追放された。それ以降、他大学に移り英文学を教えたが、1995年にイスラム

    『テヘランでロリータを読む』(1) - charisの美学日誌
  • 聖書学云々 - finalventの日記

    ⇒極東ブログ: ユダの福音書 よろしければ、聖書学を学ぶきっかけについてお聞きしたいです。そして学ぶことで内部的になにがどうなったのかに興味があります。 これは語る時によっていろいろ変わったりします。喧嘩をどっち側から見るかみたいな相の問題。 今思うと、私は、他の領域でもそうだけど、いい加減なウソ教えられると根に持つんですね。それを自分なりに解決しようと。 昨今ではそうでもなくなったけど、私が青春のころまでは、近代日の倫理の一つの型にキリスト教があったんですよ。そしていろいろな形でそれが浸透していた。その決着で聖書学も勉強しました。たいしたことはしてないんですが、実家の書架からギリシア語聖書やラテン語聖書、辞書なんかごろっと出てきてぞっとするくらいは勉強しました。 あと山七平、遠藤周作、森有正とか好きだったしとか。 で内部的にどう変わったか。これはよくわかりません。 学問として面白い面

    聖書学云々 - finalventの日記
    microtesto
    microtesto 2006/12/19
    聖書学は難度が高くて敬遠してたのだけれど面白そうですな。
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