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哲学に関するnijuusannmiriのブックマーク (14)

  • [書評] そろそろ、人工知能の真実を話そう(ジャン=ガブリエル・ガナシア): 極東ブログ

    昨日、フランス大使館を筆頭に内閣府や森美術館が主催した日仏フォーラム「人工知能は社会をどのように変えるのか?」に参加した。終日にわたる時間を費やした内容の濃いフォーラムであった。得るものは大きかった。フォーラムの紹介文書はいまだPDF形式でダウンロードできる(参照PDF)。 また、この手のフォーラムにありがちな英語=国際語ということもなく、進行案内はすべてフランス語でなされた(ただしフォーラム司会は日語)。つまり、日語とフランス語のみのフォーラムだったのである。その点でも興味深いものだった。熱く語れるフランス語の議論を聞いていると、フランス国内ではこうした熱意で日々弁論が交わされているのだろと確信された。 このフォーラムのパネリストの一人が書の著者ジャン=ガブリエル・ガナシア教授である。発言が興味深かったので、もう少しその思索について知りたいと思っているところ、会場で同書が販売されて

    [書評] そろそろ、人工知能の真実を話そう(ジャン=ガブリエル・ガナシア): 極東ブログ
  • ドイツ語を30日間ピンズラー教材で学んだ: 極東ブログ

    それほどドイツ語には関心があったわけでもないし、動機もそれほど強くなかったが、ピンズラー(Pimsleur)教材でドイツ語を学んでいこうと思って始めてから、30日が経った。 当初は、なんなのこの簡単な言語、と思っていた。発音は簡単だし、文法は単純だし、時制も少ないし、コンジュゲーション(conjugation)も法則的だし、正書法もフランス語ほど複雑怪奇でもない、と。ところが、20日過ぎたあたりから、愕然と難しくなった。 難しくなった理由は、ピンズラー方式の特徴だが、この頃から指導にその言語を使うようになる。だんだんとドイツ語ドイツ語を学ぶようになる。 この指導に使うドイツが自分には聞き取りにくいうえ、れいの複文が枠構造しているから、指導のドイツ語理解しないと自分で発話できない。むずかしい。まいったなあ。その点、フランス語とか中国とかは、けっこうおうむ返しでなんとかなっていた。 でもなん

    ドイツ語を30日間ピンズラー教材で学んだ: 極東ブログ
  • 日本語でみる「遊ぶ」の語義 その1:日経ビジネスオンライン

    気になる記事をスクラップできます。保存した記事は、マイページでスマホ、タブレットからでもご確認頂けます。※会員限定 無料会員登録 詳細 | ログイン 一つのテーマを考察する二つの道 明けましておめでとうございます。 このシリーズでは前回は、「抵抗する」のシリーズの一つの系列として、一七世紀のイングランドの市民革命の思想について考察してきました。市民革命を担ったピューリタンたちの直面した問題とその隘路がどのようにして解決され、それがどのようにして現在のイギリスや日政治にまで伝達されてきたかということを、ホッブズとスピノザの思想を中心に考えてみました。 今年は新しいシリーズに入って、「遊ぶ」というテーマを考えたいと思います。人間にとって遊ぶことは、働くことに劣らず重要な営みです。それは子供の「仕事」が基的に「遊ぶ」ことであることからも明らかだろうと思います。ぼくたちは小さな子供の頃から遊

    日本語でみる「遊ぶ」の語義 その1:日経ビジネスオンライン
    nijuusannmiri
    nijuusannmiri 2014/01/09
    「中山元の哲学カフェ」言語から見た「遊び/遊ぶ」の諸相。
  • [書評]中世哲学への招待 「ヨーロッパ的思考」のはじまりを知るために(八木雄二): 極東ブログ

    ごく個人的な興味だが、デカルトの「方法序説」を読みながら、原点になったスコラ哲学をもう少し理解しておきたい気分がしてきたので、なにか入門書のようなものはないかと「中世哲学への招待(八木雄二)」(参照)を読んでみた。スコラ哲学の基的な考え方とバリエーションを簡素にまとめた書籍を期待していたので、その点では求めていたものとは違う印象もあったが、これはこれで興味深いだった。著者は自身のグリーンボランティアの体験談を含め、一般向けにゆったりと雑感を込めて書を書いている。エッセイ的に読みやすいと言えば読みやすい。が、どちらかというと思想史というより世界史に関心ある人向けではないかとも思った。 「中世哲学への招待」と銘打ってはいるものの、実際にはヨハネス・ドゥンス・スコトゥス(Johannes Duns Scotus)の紹介書と言ってよい。その名前だが、書ではドゥンスは家系名かとの推測余地も残

  • プラトンの「饗宴」に描かれたソクラテス

    「饗宴」は、プラトンの作品の中でも最も知られているものだ。テーマが「エロス」つまり愛とか恋とかいわれるものであり、ギリシャ風の宴会スタイルにのっとって、出場者たちが次々と珍説を展開していくという筋運びが、わかりやすくまた艶めいてもいるからだろう。 この作品はまた、ソクラテスの人物像を鮮やかに映し出している。若い頃のソクラテスが戦場においては勇敢、日常においては慎ましかったこと、ダイモンの声に導かれて思索するようになったのは、ディオティマという巫女の導きによるものだった等々について、プラトンは一種の感慨を込めて描いている。だからこれは、プラトンのソクラテスにたいする「エロス」、つまり愛をうたったオマージュともいえるのである。 筋立ては、かつてソクラテスも加わって行われたという宴会の様子を、ある人物がアポロドロスに聞かせて欲しいと頼むところから始まる。そのアポロドロスもこの宴会に加わっていたわ

    nijuusannmiri
    nijuusannmiri 2012/05/24
    ふーむ。
  • [書評]アレクサンドリアのフィロン入門(E.R.グッドイナフ): 極東ブログ

    アレクサンドリアのフィロン( Φίλων ὁ Ἀλεξανδρεύς)は、紀元前25年頃に生まれ西暦45年から50年頃に死去したユダヤ人哲学者である。呼称からわかるように当時の大都市アレクサンドリアの人であり、数代前からローマ市民権を持つ富裕な名家に属していた。書「アレクサンドリアのフィロン入門」を著したE.R.グッドイナフは、その家系を19世紀末欧州のロスチャイルド家に例えている。ただし、その家の富を管理したのはフィロンの兄弟(弟であろう)アレクサンドロスであった。 フィロンの生存期間には、同じくユダヤ人のイエス・キリストの生涯が含まれる。イエスはフィロンを知っていたかもしれない。使徒行伝でヘロデ王(ヘロデ大王の孫)と呼ばれるアグリッパ1世が借財に苦しむおり、フィロンの兄弟であるアレクサンドロスは彼にかなりの金額を貸与しているし、フラウィウス・ヨセフスによれば、アレクサンドロスはエルサ

  • ああミソジニー - 萬の季節

  • [書評]中学生からの哲学「超」入門 ― 自分の意志を持つということ(竹田青嗣): 極東ブログ

    私は竹田青嗣氏の著作はデビュー作からほぼ網羅的に読んでいるので、初期の欲望論、そしてその基礎方法論としての一連のフッサール・現象学解説著作から、近年の「人間的自由の条件 ― ヘーゲルとポストモダン思想」(参照)による、フッサールからヘーゲルに至る社会思想への深化・変遷のあたりで、竹田氏は一つの頂点を迎えたのか、あるいは学生や実際上のお弟子さんたちの教育に忙しくなったか、しばらく思想的な展開は見られないものだろうと思っていた。 そうした流れで、書「中学生からの哲学「超」入門 ― 自分の意志を持つということ」(参照)も見ていたので、書店で見かけたときは、またこれも初期の副産物的な作品かと思っていた。実際、書はかつての類書「「自分」を生きるための思想入門」(参照)とよく似ている。なお、同書については「極東ブログ: 社会システムとルール社会を越えていくもの」(参照)で触れたことがある。また竹田

    nijuusannmiri
    nijuusannmiri 2009/07/28
    「標題の「中学生」に惑わされず、30歳過ぎた人でもそうした人生の難所にある人なら読んで得るところはあるだろう。」
  • 私の人生観を決定づけた大森荘蔵の言葉 - finalventの日記

    「物と心」より。 こうして如何なる解釈をとろうと、確率論は帰納の意味を明確にはしたが、帰納の問題に解決を与えることができなかった。むしろ確率論の経験への適応可能性が帰納の正当化に依存するのである。 正当化が論理的に不可能だ、ということも全く正しい。理由は簡単で、ヒュームの言う通り、過去が未来を些かでも規定するという補償が些かもないからである。しかも、何の正当性もなくわれわれは現に無数の帰納を行っている。それが定義上「合理的」だからである、と言うことは念入りな冗談という以外はない。 実はその意味で科学にはなんら合理性はなく、念入りな冗談に過ぎない。 合理性ではなく、それは賭に過ぎないと大森は言う。 この、未来と過去の類似、過去世界の世界像の未来への外挿はこれまで何の根拠もない独断的仮定として非難されてきた。しかし、これは仮定ではなく賭なのである。そして、何の根拠もない賭けなのである。 いかに

    私の人生観を決定づけた大森荘蔵の言葉 - finalventの日記
  • 「我思う故に我有り」は微妙に誤訳なんじゃないか: 極東ブログ

    このエントリを書こうか書くまいかためらっているうるに、なんとなく書かなくなりそうな感じがして、それはそれでいいかなと思うものの、まあ少し気楽に書いてみるかな。おそくらほとんどの人にとってそれほど関心のないことだろうし、そういう話題を扱うのがこのブログだしな、と。さて、結論からいうと、「我思う故に我有り」は誤訳だとは断言しづらい。また、「思う」じゃなくて「考える」だとかそいうレベルの話でもない。 このことが気掛かりになっていたのは、先日の「極東ブログ: ウォーレン・バフェットのありがたいご託宣」(参照)で取り上げたコラムの標題"Buy American. I Am."をどう訳すかということだった。コメント欄でいろいろご示唆をいただいたけど、正直なところあまりピンと来なかった。来ない理由は、なんとなくこの英語の意味を、ちょっと変な言い方だけど、自分の英語処理脳でなんとなくわかっている部分があり

    nijuusannmiri
    nijuusannmiri 2008/10/31
    たぶん半分も理解してない、俺。"I am that I am"ってかっこいいフレーズだな、とは思ってた。
  • あまり文献にそって考えているわけではないが - finalventの日記

    最近、自分が20年以上考えてきた、哲学的な問題にちょっと解決が見つかりそうなので、ときおり考えている。どういう問題なのかというのを説明するのがめんどくさいし、哲学をプロパーにやるとすでに終わっているよその問題ということにもなるのかもしれない。 ま、でも、ぶっちゃけ言うと、主観の根拠性と、世界の齟齬の理由はなにか?ということ。 まあ、独我論なんだけど。 大森荘蔵から少しづつ自分も離れつつあるのか、しかし、結局独我論というのは抜けることができない前提なんだというとき、独我の中に現れる他者や世界とはなんだろ? ここで最近考えているのは、予測とルールということ。 はてななんかでも前期ポパーと言っていいかと思うけど、科学的言説の基準に、反証可能性が一人歩きしているっぽいけど、反証可能性というのは、まあ、それなりに役立つ。 で、この場合、世界にはベルクソン的な時間は存在しない。つまり、反証可能性という

    あまり文献にそって考えているわけではないが - finalventの日記
    nijuusannmiri
    nijuusannmiri 2008/10/07
    「時間」の問題、かな。慣用句的な意味ではない。
  • [書評]反哲学入門 (木田元): 極東ブログ

    率直に言うと暇つぶしくらいの気持ちで木田元「反哲学入門」(参照)を買った。というのも、たぶんまたいつもの木田先生の著書と同じ内容なんじゃないかなと高をくくっていた。が、比較的新刊書っぽいし、見開いたところにちょっと気になる話(subjectという言葉の歴史の解説)があったのと、前書きを見るとまたぞろ口述筆記らしいが木田先生だからいいかと思った。夜、眠くなるかもなと読み始めたが、やばいやばすぎる。すごい面白い。二時間くらいで読めるが、もったいなくて読書速度が遅くなる四時間くらいかかる。すると徹夜になると思ってとりあえず閉じた。 書の内容は木田ファンなら特に目新しいことはないと言ってもいい。講談社学術文庫「反哲学史」(参照)と同じと言っていいかもしれない。その意味で結局書も「反哲学」とメルロー=ポンティ風なタイトルになっているが、要するに後期ハイデガー論である。なので当然、ハイデガーや「

    nijuusannmiri
    nijuusannmiri 2008/02/22
    新潮社 ¥1,575 (税込)/いつか読む。
  • 自省力の問題というか - finalventの日記

    自分語りで始めるのもなんだが、私は子どもの頃ひどい孤独で云々、そして世界と人々は私を否定していた、ので、そういう状況からこの世界に向き合うことになった、ま、端折って言えばそう。 なので、自分が正しい、正気だという前提から出発しない。自分の思念・存在はまず留保され仮説としている。そして、半世紀も生きてみてしみじみ思うのだけど、仮説を人生で検証して生きるという人はそんなには多くはないのかなと思う。 私は、私を否定した人の言動も留保する。それも仮説にする。そして生きながら自分の仮説と照合して検証していく。検証というか経験というか。できるだけバイアスが入らないようにしている、というのはバイアスとは自負のようなものだからだ。 で、そうはいっても、生きて継続的に検証していくと、意外と自分の仮説のほうが正しい。 そうなる理由は、古典というか死んだ人の叡智に頼るしかなく、そういう人達はその人生で検証してい

    自省力の問題というか - finalventの日記
    nijuusannmiri
    nijuusannmiri 2008/01/28
    「死は無である、だが、私は恐怖しない、というのは、ただのバカなのではないか」死を恐れるというのはやはり信仰がないからなのだろうか。それは狂気を含むように見える。宗教が狂気に見えるのは視点が違うからか。
  • [書評]〈つまずき〉のなかの哲学(山内志朗): 極東ブログ

    以前は人に勧められたをよく読んだし、そうしたことで自分の視野の狭さを知るきっかけとなったものだが、いつからかそういうことが減ってきた。書「〈つまずき〉のなかの哲学」(参照)は、久しぶりにそうした契機で読んだものだ。一読して、なるほどな、私に勧めたくなるだな、ということがよくわかった(ありがとう)。「私」とは何か、人生とは何か、そういうものに私は今四十九歳までぶつかり続けた。これからもそうだろうが。 筆者山内志朗については私は知らなかったが一九五七年生まれとのことで私と同年である。もしかしたら過去のネット世界のどこかでハンドルとハンドルで遭遇していたかもしれないと思った。 書は率直に言うと私には読みにくいだった。理由は私にある。私が思考の柔軟性を失いつつあり、哲学書に対してまず哲学史的な特定の枠組みを求めてしまうことと、また、書で多く言及されているヴィトゲンシュタインについて顕著

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