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恐山あれこれ日記に関するsphynxのブックマーク (33)

  • 恐山あれこれ日記: ありのままの不自然

    ありのままの不自然 「ありのままでよいのです」とか「ありのままの私を見てほしい」という言い方を、時々耳にすることがあります。そのたび、私はいつも、わかったような、わからないような、妙な気持ちになってしまいます。いったい、「ありのまま」とは何か、どういう状態なのか? 少なくともそれは、やりたい放題のわがまま勝手、無遠慮・野放図の行いを言うわけではないでしょう。「よい」と言うぐらいですから。 このとき、「よい」だの「見て」だのと言う以上、言う方は「ありのまま」がどういうことを意味しているのかわかっているはずです。 しかし、わかると言うなら、それは「ありのままでない」状態との区別ができる、という意味でしょうから、もはやそれは概念です。だとすれば、「ありのまま」とは「特定の概念に規定された状態のまま」ということになるでしょうから、これはどう見ても、「ありのまま」という言葉で人が言いたい意味とは違う

  • 恐山あれこれ日記: にんげんっていいか?

    にんげんっていいか? 何度か耳にしたことのある、新手の童謡かと思っていた「くまの子みていたかくれんぼ・・・」ではじまる歌が、かつての名作アニメのテーマソングだということを、つい最近知りました。 実は恥ずかしながら、この歌を初めて聴いた時、私は思わず涙ぐんでしまいました(正直言うと、私は涙もろい方)。 この歌は、「いいな、いいな、にんげんっていいいな」というサビの一節に続いてこうなります。 「おいしいおやつに、ほかほかごはん、こどものかえりを待ってるだろな。ぼくもかえろ、おうちにかえろ」 私は、最初別になんの感慨もなく、この歌を聴いていたのですが、この「・・・ほかほかごはん、こどものかえりを・・・」まできて、ちょっと違和感を覚えたのです。当然ここは「ぼくのかえりを・・・」と続くのだろうと、思うともなしに思ったからでしょう。ところがさにあらず、ここは「こども」となり、直後に「ぼくもかえろ・・・

  • 恐山あれこれ日記: ちょっとした感想

    ちょっとした感想 以下は、ある寺が主宰する坐禅会の記念誌に寄稿したものです。こういう話は珍しいでしょうから、転載してみます。 坐禅という道しるべ 〇〇寺様の参禅会が三十周年を迎えるのだそうで、まことにおめでたい、また一曹洞宗僧侶として、ありがたいことだと思う。 副住職さんとは永平寺の入門が一緒で、その縁もあってか、会員の皆さんの前で話をさせていただいたり、ご一同がはるばる恐山まで参拝に来て下さったりと、今では何だか他人という気がしない。 そこで、方々で行われている坐禅会の様子を時々見聞して、私が個人的に感じていることを、この機会に聞いていただきたいと思う。 ◆   ◆   ◆ 以前、あちこちのお寺で参禅経験があるという初老の人と話をしていたら、彼がこんなことを言った。 「南さん、坐禅というのは人を傲慢にしますな」 これはおかしいだろう。普通は、坐禅を続けていれば、「我がとれて傲慢でなくなっ

  • 恐山あれこれ日記: 言い訳的身の上話

    言い訳的身の上話 今まで私が何冊かに書いたり、講演などで話したりしてきた内容の、基的なアイデアや発想は、そのほとんどが10代終わりから20代の間に出てきたものです。 当時は無知蒙昧の若造でしたから、自分が問題にしているテーマに、何かちょっと使えそうなアイデアを思いつくたび、こんなことを思いつくなんて、オレは天才ではないかと、ひとりで興奮していました。 とはいえ、少々知恵がついてくれば、さすがに自分程度の人間が思いつくことは、ずっと昔に先賢がより鮮やかに、かつ徹底的に考え抜いていると、身にしみてわかってきますから、「天才」妄想は早々に醒めました。が、それでも、自分など及びもつかぬ賢人がかつて考えていたことと、つながるような考えに思い到ったことは、それはそれで嬉しい気持ちがしたものです。 まあ、実際には、思いついたことにしても、それなりに使えたのは、百のうち二、三というところでしたが(特に

  • 恐山あれこれ日記: 誰の問題か、問題は誰か

    誰の問題か、問題は誰か 思いつき禅問答シリーズ、このあたりでもう一回。 ある老師が修行僧たちに説教しました。 「あちこちで老師方は衆生済度が大事であると教えているが、たとえば次のような3人の病人がやって来たら、どうやって教え導けばよいのか?  まず眼を病んでいる者は、老師が模範として示すことが見えない。耳が聞こえないものは、老師がどれほど言葉を尽くして教えても、聞こえない。話すことができない者は、自分の境地がどれほどのものか、老師に示すことができない。さあ、諸君、どうしたらよいか? もし、これらの人々を教え導くことができないというなら、仏法には大した功徳はないということになろう」 この話を聞いていた一人の修行僧は、別の老師のもとを訪れて、どう思うか質問しました。すると、その老師はまず言いました。 「礼拝しなさい」 修行僧が言われるままに礼拝して立つと、老師はいきなり、持っていた棒を修行僧に

  • 恐山あれこれ日記: 三つ子の偏見

    三つ子の偏見 幼い頃の考え方や習慣などは、大人になっても変わらないことを喩えて、「三つ子の魂百までも」と言ったりしますが、私なんぞはまさにそのとおりで、ものの考え方や感じ方のおおよそは、まるで成長がなく、子供の頃と変わらないままです。 とりわけ、無防備な頭にビルトインされたいくつかのイメージは抜き難く、ほとんど「偏見」のまま固まってしまいましたが、後にそのイメージを雑多な書物から引き出したアイデアで言語化する作業をしてみると、結構、ものの見当がついたりしました。 おそらく、小学校の4年か5年生の頃です。社会科の授業で工場見学というものがありました。無論、そういうところを実際に見るのは初めてで、学校嫌いの私も、かなり楽しみにしていました。 行ったのは缶詰工場で、確か同級生の父親が働いていて、丁寧に案内してくれたと思います。 私たちが入っていくと、だだっ広い工場にはいろいろな機械がところせまし

  • 恐山あれこれ日記: 死を想う人と

    死を想う人と ぼくね、君のような人と話をするとき、いつも言うんだけどね、今の君の苦しみそのものは、ぼくにはわからないんだ。君じゃないんだから。想像することはできるし、その苦しさをどうしようかと、一緒に考えることはできるけどね。でも、わかりっこないんだ。 君が死にたいと思うのは、聞いた状態からして、当たり前だな。ぼくが同じ状況なら、やはり自殺を考えるだろう。ただ、もし君が自殺してしまったら、ぼくはもう、何も君には感じないね。ぼくは、死にたいと思う人には、強く共感することがあるが、死んでしまった人には、ああ、ケリがついたんだな、としか思わない。 そう、そのとおり。ぼくが葬式をするのは、遺された人のため。それだけ。 生きていても無意味だ、と思うのは無理もない。だからと言って、死に意味があるわけでもない。君は死んだら楽になると考えているんだろうが、そうなる保証はない。 生きる意味はあるものではない

  • 恐山あれこれ日記: 「私」でない誰か

    「私」でない誰か たとえば、イタコさんがいます。しかし、彼女が当に死者の魂を呼び出せるのかどうかは、検証不可能です。するとこのとき、次の八つのことが言えます。 ①人も他人もイタコさんだと思っていて、当に魂を呼べる。 ②人はイタコさんだと思っていないが、他人はイタコさんだと思っていて、当に魂を呼べる。 ③人はイタコさんだと思ってるが、他人はイタコさんだと思っていなくて、当に魂を呼べる。 ④人も他人もイタコさんだと思っていなくて、当に魂を呼べる。 ⑤人も他人もイタコさんだと思っていて、当は魂を呼べない。 ⑥人はイタコさんだと思っていないが、他人はイタコさんだと思っていて、当は魂を呼べない。 ⑦人はイタコさんだと思ってるが、他人はイタコさんだと思っていなくて、当は魂を呼べない。 ⑧人も他人もイタコさんだと思っていなくて、当は魂を呼べない。 以上、八つのうち、我々

  • 恐山あれこれ日記: 恐山奥の院

  • 恐山あれこれ日記: 番外: 警告します!

    番外: 警告します! インターネットの普及に伴い、ウェブ上には多くの、霊的能力(降霊術、霊視、前世や来世の鑑定、占い等々)を売り物にする個人や団体のサイトがあります。同様のものは、雑誌その他のメディアにも、しばしば登場しています。 このうち、恐山(恐山菩提寺)との関係を想像させるものが、かなり多数みられますが、それらと恐山とは、一切関係ありません。すなわち、 恐山に所属する、恐山が契約する、恐山が雇用する、恐山が認定する、いずれの霊能者や霊能者団体も皆無であり、「恐山で修行した」と我々が公認する霊能者は一人もいません。 また、恐山の名前を使った降霊術、霊視術、占い術などの霊的技術は、それを使う者が商品宣伝的に自称しているだけであり、恐山と特別な関係を持つ技術は、絶無です。すなわち、 恐山で開発された、恐山が認定する、恐山が保証する、恐山で「修行した」結果作り出された、「恐山」の名称が特別な

  • 恐山あれこれ日記: はばかりながら

    はばかりながら かつて何度か発言したように、私はいわゆる「霊魂」の「実在」については、肯定も否定もしないという、釈尊直伝の「無記」の立場をとっています。 したがって、ある人物が「霊言」(イタコさんの「口寄せ」もその一種です)といわれる特殊な行為を通じて、すでに死んでいる人間の発言を仲介したとしても、その「真偽」それ自体は判断できないと思いますし、しません。 以前、歴史的大宗教者にかんして噴飯ものの「霊言」を読んだことがありますが、いかに噴飯ものであろうと、「真偽」については判断不能です。実際に「霊言」を発した人が「だってその時はホントにそう言ったんだもん!」と言うなら、これを真に受ける必要はないにしろ、嘘だと断定する根拠もありません。検証の手段がないからです。したがって、「霊魂」の「実在」同様、「霊言」の「真偽」についても、「無記」を通すしかないわけです。 ですが、たとえそうであっても、

  • 恐山あれこれ日記: 市井の名(?)言

    市井の名(?)言 ▼ 電車の中にて  男子学生風 「あの世がなければ、オレもいないから関係ないし、あの世があってオレもいれば、結局今と変わらないし、そういう心配いらなくね?」 すごいぞ! 学生!! ▼ 某寺の法要にて、男性高齢者 「よく遺言で葬式の仕方をあれこれ指図したり、自分らしいお葬式とか言って、妙にこだわる人がいますけど、何なんですかね、アレ。死んじまえば、後は他人に任せるしかないんだから、余計なことを言わずにさっさと死んで、遺った家族の好きなようにさせればいいじゃないですか」 えらいぞ! おじいさん!! ▼ 病院の待合室にて、女子高生 「やらないで後悔するより、やって後悔するほうがいいって言うでしょ。でもサ、やらないで後悔するのは自分だけですむけど、やって後悔したら他人を巻き込むじゃん」 深いぞ! おねえちゃん!! ▼ レストランにて 幼稚園男子 (急いでいるお母さんに「今日はコレ

  • 恐山あれこれ日記: 言葉による不在

    言葉による不在 たとえば、ある絵の美しさは、言葉でいくら説明しても伝えることは不可能で、実際に見る以外に、その美しさを知ることはできません。そういうことから、言語能力の不完全性に言及することは、よくあるパターンです。 ただ、私が今回考えたいのは、そういうことではなく、言語が何かについて語るときには、不可避的に、そのもの、それ自体の存在を消失させてしまうということです。そして、そのものについて何か語っているときには、大抵の場合、その消失に気がつかない、ということです。 たとえば、私が、いま目の前の「この」茶碗について語っているとき、まさに、ここに今たった一つのものとしてある、そういう茶碗です。それを称して「この」と言っているのです。 ところが、茶碗を指す「この」という語は、いつでも、どこでも、何にでも使えます。けっして、いま私の目の前にある、まさに「この」茶碗だけに限定されて使われるわけでは