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村上春樹に関するtopo-gigioのブックマーク (5)

  • 村上春樹が僕に教えてくれたカジュアルな格好よさについて - 横浜逍遙亭

    我々の世代にとって、村上春樹の小説は蠱惑の壺であり毒だった。hayakarさんのエントリー「僕と鼠」は、その雰囲気を見事に押さえていて、一昨日はこれを読みながら一瞬の物思いにふけることになった。文学が大衆の嗜好を先導し時代の風俗に影響を及ぼすのはいつの時代にもあったことだろうが、我々の時代にその出番が回ってきたのが村上春樹で、ファンの若者は皆なにがしかの影響を受けたのだと思う。 別にだからといって直接僕が何をしたわけではない。当時の大学生なんて基的にお金がないし、たとえあったとしてもバーに行ってかっこつける年格好ではない。不細工ななりでは双子のガールフレンドができるほどもてることなんて100パーセントありえない。スパゲッティをゆでておいしい料理を作る器用さと甲斐性は持ち合わせていない。けっきょくは村上春樹の世界は夢の世界、あこがれの国の出来事でしかなかったと言ってしまえば話はまたなんとも

    村上春樹が僕に教えてくれたカジュアルな格好よさについて - 横浜逍遙亭
    topo-gigio
    topo-gigio 2007/11/10
    村上春樹観をまたまた変貌させるエントリ
  • 村上文体をめぐる雑感 - 横浜逍遙亭

    今朝も「車」に挨拶をした。 『走ることについて語るときに僕の語ること』を読み始めて三日目。牛の散歩のような、鈍重なペースの読書を心安らかに楽しんでいる。それでも、最初の二章にそれぞれ一日ずつをかけ、錘を落とすようにして読んだが、昨日はすっとペースが上がり、すでに九章のうち六章を読み終えてしまった。今日は読書の時間がとれないだろうが、おそらく明日には最終ページまでたどり着くだろう。少しもったいない気がする。 ひさしぶりに村上春樹をゆっくりよんで「なんて文章がうまいんだろう」とほれぼれしてしまった。村上さんの文章は、ドレミファソラシドの音階を素直に用いてできた分かりやすいメロディに似ている。一つ一つの文章は素朴といってよいほどやさしい言葉づかいで書かれている。『A Wild Haruki Chase 世界は村上春樹をどう読むか』に登場する海外の村上翻訳者の口からも、村上さんの日語を理解して

    村上文体をめぐる雑感 - 横浜逍遙亭
    topo-gigio
    topo-gigio 2007/11/08
    つい先日まで全くなかった「村上春樹観」がいろんな方向から形作られていく
  • 村上春樹に戻る - 横浜逍遙亭

    村上春樹の初期作品には、と僕がここで言うのは、主に“100パーセントの恋愛小説”『ノルウェイの森』が出る以前の作品群を指してそう呼びたいのだが、若さ故の心の過剰と無力感をすくいとって癒してくれる何かがあった。当時の読者である僕にとって村上春樹の小説はそういうものとしてかけがえがなく、村上春樹が売れるということは、世の中には自分と似たような心象風景を抱いて過ごしている幾千もの人々が存在することの証明でもあった。村上自身がそうであるように、僕自身も含めてこれらの人々の多くが連帯といった行動様式を得意としていないとすると、そこから積極的な何かの社会的な運動が出てきたりすることはありえない。ビートジェネレーションのようには、という意味だ。それでも、村上春樹が読まれているという事実は、どこの誰だか分からない誰かに向かって密かな連帯の感情を抱く感覚を心の中に生じせしめたような気がする。 こうした感情を

    村上春樹に戻る - 横浜逍遙亭
    topo-gigio
    topo-gigio 2007/11/07
    ある一定以上の濃さを持って村上作品と過ごしてきた人の味を感じる。おもしろい
  • 村上春樹のエッセイ - 横浜逍遙亭

    新聞で村上春樹の新刊が出たのを知る。屋に行くと当然どこでも平積みになっている。さて、どうしようと手にとってぱらぱらとめくったものの、レジに持って行くのをためらう状況が続いている。 春樹さんの小説、とくに短編にはほとんど例外ないと言ってよいほど引きつけられていたのに、エッセイは面白いと思ったことがほとんどない。あれは何故だろうと、答えのないままにこんな文章を書き出すのがよいのかどうか分からないが、最近のこのブログはこんな文章ばかりだ。 明らかなことは、村上春樹の初期の短編には、出口のない日常を生きる若者の屈託を受け止めるしんとした間合いがあり、熱心な読者の僕にとってそれが彼の大きな魅力だった。ところが、エッセイになると、なんだか空気が変わってしまい、ポップな明るさを演出しなければ気が済まないような、厳粛な芝居を終えた役者のくつろぎの休日みたいな色合いの文章が前面に出て、どうにも気にくわない

    村上春樹のエッセイ - 横浜逍遙亭
    topo-gigio
    topo-gigio 2007/11/02
    小説も短編も真剣読んだことがないが、この本だけはなぜか買ってみようという気になった。
  • 極東ブログ: [書評]走ることについて語るときに僕の語ること(村上春樹)

    村上春樹の書き下ろしエッセイ「走ることについて語るときに僕の語ること」(参照)は買ったその晩に読みふけって読み終えた。読みやすいだったからとはとりあえず言えるのだが、奇妙な、苦いような後味が残った。たぶん、エッセイとは違う何かがあるのだろう。後書きで彼は「メモワール」だと言っている。 僕はこのを「メモワール」のようなものだと考えている。個人史というほど大層なものでもないが、エッセイというタイトルでくくるには無理がある。前書きにも書いたことを繰り返すようなかたちになるが、僕としては「走る」という行為を媒介にして、自分がこの四半世紀ばかり小説家として、また一人の「どこにでもいる人間」として、どのようにして生きてきたか、自分なりに整理してみたかった。 村上は「メモワール」というフランス語の語感に思い入れがあるようでいて「エッセイ」のフランス語の語感を知らないのも奇妙にも思われるのは、むしろ英

    topo-gigio
    topo-gigio 2007/10/27
    気になる
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