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森岡正博に関するushiwatatのブックマーク (19)

  • 『哲学の誤読』入試問題の哲学的読み - G★RDIAS

    哲学の誤読 ―入試現代文で哲学する! (ちくま新書) 作者: 入不二基義出版社/メーカー: 筑摩書房発売日: 2007/12/01メディア: 新書購入: 8人 クリック: 95回この商品を含むブログ (37件) を見る 入不二基義さんの新刊『哲学の誤読:入試現代文で哲学する』は、なかなかの傑作である。大学の入試問題に実際に出た、野矢茂樹「他者という謎」、永井均「解釈学・系譜学・考古学」、中島義道「幻想としての未来」、大森荘蔵「「後の祭り」を祈る」という文章を題材にして、予備校の解答例がいかにそれらの哲学的文章を読めてないかを指摘し、哲学の文章が、哲学ではない文章へと変換されていく仕組みを考察したものである。この仕組みの原因のひとつは、哲学の文章の意味するところのものがプロの解説者によってさえ往々にして理解されていないところにあるのだが、それと同時に、入試の現代文というパラダイムそれ自体にも

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    ushiwatat 2007/12/14
    |われわれ(含む私)の最大の課題のひとつは、いかにしてヴィトゲンシュタインから逃れつつ哲学できるかということであるように私はひしひしと思う。|
  • 女性型ロボットへの性的欲望の未来 - G★RDIAS

    知らないうちに、女性型ロボットがすごいところまで進化している。しかしどうして女性型ロボットが進化するのか。そのほうが売れると見ているのか。開発者の性的欲望がそうさせるのか。ジェンダーの視点から見たらどうなるのか。 これは阪大で作られたもの。ユーチューブに上げられたもののなかではいちばん人間そっくりのように思う。 これは阪大と提携しているココロ社が作ったもの。商業ベースになるとこうなる。 サンリオが資提供しているのはなるほどと思う。「ダイエット」「セクハラ」とかの言葉が出てきているあたりが注目点か。 これもココロ社で、動きがダイナミックである。 これはカナダの研究者が作ったものだが、 研究者の男が女性型ロボットの胸を触るシーンが収められている。開発者の性的欲望があらわになったシーンであろう。 みなさんのご意見もぜひ聞いてみたい。 ・なぜ女性型ロボットが熱心に作られるのか、それも美人系の?(

    女性型ロボットへの性的欲望の未来 - G★RDIAS
    ushiwatat
    ushiwatat 2007/11/17
    問題群の一つは人工知能は人格を持てるか、と言い換えてもいいのかな?定義次第だが一般社会的承認は難しそう。ただ人格を想定する個人がいたとして、文句をつけられるかどうか。性関連についてはなんとも言えない。
  • 土井健司『キリスト教を問いなおす』読書中 - G★RDIAS

    キリスト教を問いなおす (ちくま新書) 作者: 土井健司出版社/メーカー: 筑摩書房発売日: 2003/08/01メディア: 新書購入: 2人 クリック: 27回この商品を含むブログ (13件) を見る 土井さんの、このをちびちびと読んでいる。土井さんはキリスト教神学者であり、最近では生命倫理問題でも発言している(ちなみに土井さんは私に対しては批判的)。このの最初で、キリスト教は十字軍や魔女裁判などで多くの人の命を殺戮した宗教ではないのかという疑問に正面から答えようとしている。そして、「キリスト教」と「キリスト教を信じているという人」を分けようと提案する。 まず単純に考えてみましょう。たとえば凶暴な性格の人がいて、その人がたまたまキリスト教を信じていたとします。その人がキリスト教の悪口を言った他人を殴り倒したとすると、その人はキリスト教徒であるからそうしたのか、それとも凶暴な性格である

    ushiwatat
    ushiwatat 2007/11/01
    |キリスト教社会一般の問題として、キリスト教の名のもとに戦争肯定する人々がいるのはどういうことか? そしてそれに賛同する信者たちがたくさんいるのはどういうことか? という疑問| コメント欄も。
  • 中沢新一の生態学観はこれでいいのだろうか - G★RDIAS

    中沢新一が解題編集している南方熊楠コレクション『森の思想』というを再読。 南方熊楠コレクション〈5〉森の思想 (河出文庫) 作者: 南方熊楠,中沢新一出版社/メーカー: 河出書房新社発売日: 2009/11/10メディア: ペーパーバック購入: 2人 クリック: 9回この商品を含むブログ (4件) を見る 中沢の文章はレトリカルに美しいが、内容はほんとうにこれでいいのだろうか。たとえば生態学に触れたところ。 景観の美的秩序は、生物界のエコロジカルな相互関係によって、支えられている。そこが美しくいられるのは、そこでおこなわれている生命同士の関係が、上手に調節されているからだ。そうでないと、自然の景観全体の美は、維持されるはずがない。この生態学的秩序の維持に、神社の森は、きわめて重要な働きをしてきた。生態の秩序は、水田が開かれただけで大きな損傷を受けるものだ。そこに蒼たる神社の森があること

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  • "Girls and Guns"は米国の病か? - G★RDIAS

    米国のネットテレビで、Girls and Gunsという番組が大ヒットの兆しを見せているようだ。これは、10代から20代のセクシーな女性を公募して、全員に水着を着せて物の銃やマシンガンを渡して、標的の車や人物人形を撃ちまくって破壊させるゲームである。4人の参加者で競わせ、2人が勝ち残る。一種のリアリティショーである。番組を発案したのはアウトドア系の女性である。番組のサイトで、大型銃を撃つのが好きな女性を募集している。 勝者の女性を決める基準は、"Girls are judged on a point system judged on accuracy, speed, form, and sex appeal" とのことだ。 百聞は一見にしかずなので、映像を見てみよう。こういうのがダメな人は見ないように。 番組のサイトはここ。 http://www.girlsandguns.com/ 映像

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  • 浅野素女「フランス父親事情」 - G★RDIAS

    フランス父親事情 作者: 浅野素女出版社/メーカー: 築地書館発売日: 2007/03/01メディア: 単行 クリック: 20回この商品を含むブログ (14件) を見る フランスに住む女性が、フランスの男性にインタビューを行い、それをエッセイ風にまとめているである。浅野さんは、父親について考える事は、母親について考える事でもある、という。浅野さんは、母親だけの育児が、閉じた母子関係につながっていくことに警鐘を鳴らしている。母親の愛情が深いだけに、愛情は自己愛に変質しやすく、ときに子どもを支配する暴力になることを指摘する。その母子関係へ介入する他者として、父親が求められているのだ、と浅野さんはいう。 このでは、なにより、フランスの父親たちのエピソードが面白い。ある産院では、父親学級が開かれる。その中には、男性のみのグループミーティングのプログラムが準備されている。男性の産科医のファシリ

    浅野素女「フランス父親事情」 - G★RDIAS
    ushiwatat
    ushiwatat 2007/09/29
    コメント欄が…売り言葉に買い言葉になってるな…。粘着なのか?
  • はてなブログ | 無料ブログを作成しよう

    オーベルジーヌ実レポ べ物の鼻塩塩(未だに通じるのかな) オーベルジーヌというカレーをご存知だろうか 都内にあるデリバリー専門のカレー屋で、 ロケ弁などで大人気の格欧風カレーが楽しめるらしい いいな〜 いいな〜オブザイヤー 都内の奴らはこんな良いモンってんのか 許せねえよ………

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  • 自然科学とリベラルアーツの統合:このままでは無理 - G★RDIAS

    「"自然科学"と"リベラル・アーツ"を 統合する会」というものが、多田富雄先生によって設立されたというのを新聞で読んで、そのサイトを訪れてみた。 http://www.insla.jp/ 多田先生はかつてNHKで対談させてもらったこともあるし、共著もあるしで、たいへんお世話になっている偉い先生である。この会の賛同人・実行委員会のメンバーも、多田先生の豊富な人脈のおかげで壮絶なメンバーが集まっている。このプロジェクトはいわゆる理系と文系の統合・融合を目指すものだ。その討論などの活動はすべてネットで行なうとされている。 はっきり言わせてください。無理です。まず賛同人・実行委員会の偉い先生方はネット時代以前の方々で、ウェブのことをたぶん肌で分かってない。その証拠に、上記のオフィシャルサイト、ありえんぐらいダサい。レイアウトもむちゃくちゃだし、PDFが散らばっているし、インタラクティブになってない

    自然科学とリベラルアーツの統合:このままでは無理 - G★RDIAS
    ushiwatat
    ushiwatat 2007/06/17
    「学際的なもの」がしばしば無益に終わるのはなぜか。タコツボ化を怖れるあまり無難な話で終わってしまうせいか?しかし時代に先駆けすぎるという評価も逃れられないのかもしれない。 ↑なるほど。
  • ゲーテ「野ばら」再考 - G★RDIAS

    かの有名な若きゲーテによる詩「野ばら」、シューベルトらも曲を付けているから、みなさんも一度は聴いたことがあるだろう。手塚富雄先生による訳詩。 ゲーテ詩集 (1966年) (角川文庫) 作者: ゲーテ,手塚富雄出版社/メーカー: 角川書店発売日: 1966メディア: 文庫 クリック: 3回この商品を含むブログ (1件) を見る 「野ばら」 野にひともと薔薇が咲いていました。 そのみずみずしさ 美しさ。 少年はそれを見るより走りより 心はずませ眺めました。 あかいばら 野ばらよ。 「おまえを折るよ、あかい野ばら」 「折るなら刺します、 いついつまでもお忘れないように。 けれどわたし折られたりするものですか」 あかいばら 野ばらよ。 少年はかまわず花に手をかけました、 野ばらはふせいで刺しました。 けれど嘆きやためいきもむだでした、 ばらは折られてしまったのです。 あかいばら 野ばらよ。 (17

    ゲーテ「野ばら」再考 - G★RDIAS
  • モテへのアドヴァイスは恋愛至上主義に加担するのか? - G★RDIAS

    みなさんからの多数のコメントなどを参考に、再度、モテについて最初から考えてみる。 まず、人は恋愛する必要はない。モテる必要もない。私はそのように考えている。だから「恋愛できない男は、男じゃない、一人前ではない」という思想(恋愛至上主義)を私は否定する。もしそれが日社会を分厚く覆っているのならば、それは解体されるべきである。これが私の基スタンスなので間違わないようにしてほしい。 そのうえで、「恋愛したい」「モテたい」と心から思っている男の子に対して、私はアドヴァイスをしてあげたい。(これはモテなかった若き日の自分自身に対するunfinished businessという意味もあるのだろうと私は思っている) まず第一に、「モテ」の概念を転換しておきたい。一般には「モテる」とはいろんな女にちやほやされて恋愛・性愛しまくれることだと思われている。私はこれを「モテ」という言葉では呼ばない。なぜなら

    モテへのアドヴァイスは恋愛至上主義に加担するのか? - G★RDIAS
  • ウェブへの恋愛か性愛か:梅田望夫他『フューチャリスト宣言』を読む - G★RDIAS

    『フューチャリスト宣言』を筑摩書房の方からいただいたので、帰りに読んだ。ウェブの今を感じるための好著だ。とくに梅田さんの発言がおもしろい。 フューチャリスト宣言 (ちくま新書) 作者: 梅田望夫,茂木健一郎出版社/メーカー: 筑摩書房発売日: 2007/05/08メディア: 新書購入: 15人 クリック: 170回この商品を含むブログ (680件) を見る 梅田さんは1960年生まれということで、私とほぼ同世代。仕事をしている分野は違うが、ウェブの見方はたいへん似ている。彼の『ウェブ進化論』の新聞書評を以前に書いた。 http://d.hatena.ne.jp/kanjinai/20070328/1175018037 梅田さんのウェブへの信頼感というか心中感覚というのは、なかなかしびれる。私もウェブ中毒で、目が覚めているときはつながっているほうが多い人だが、梅田さんほどの心中感覚はない。1

    ushiwatat
    ushiwatat 2007/05/11
    |お金をもらわないがゆえに、書けることがたくさんある。もちろんお金をもらうがゆえに、書ける文章というものもある(凝縮した文体とか)。|
  • 「モテる男」について再度考えてみた - G★RDIAS

    4月14日に「モテとはひとりの女を大切にすることである」というエントリーを書いた。みなさんからいろんな反響があったので、その続きを書く。 それに関連して、sugitashunsukeさんのところで、非モテ1.0 2.0 3.0という議論があった。 http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/20070427 これを参照しながら考えていきたい。 まず「モテる」とはいったいどういうことか、について、いくつかのとらえ方が現存する。私はそれをだいたい3つにわけて考えてみてはどうかと思うのである(上記エントリーもその考え方に立っているようだ)。 まずは、もっとも一般的な「モテ」の概念がある。これは、とにかく女に好かれまくって、つねにいろんな女と恋愛状態になれる・恋愛状態であるということを意味する。 モテ・1 モテる男とは、つねにいろんな女と恋愛・性愛状態である、あるいは

    「モテる男」について再度考えてみた - G★RDIAS
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    ushiwatat 2007/05/01
    |その抑圧からの解放と、好きな人との関係維持のための自制とのあいだの闘いこそが、エロス的存在としての人間の生の醍醐味である。それを心ゆくまで楽しめばよいのである。|
  • 「きけわだつみのこえ」から聞こえてくる声 - G★RDIAS

    きけ わだつみのこえ―日戦没学生の手記 (岩波文庫) 作者: 日戦没学生記念会出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 1995/12/18メディア: 文庫購入: 3人 クリック: 43回この商品を含むブログ (55件) を見る 『新版・きけわだつみのこえ』は、95年に新しくテキストクリティークを施した新版である。不備の多かった戦後すぐの版に比べて、ずいぶんと原典に近づいているのだろう。学徒出陣で戦地に強制招集され、特攻隊などで死んでいった大学生たちの手記は壮絶だ。これを超える文学作品は多くない。 長谷川信の手記 歩兵の将校で長らく中支の作戦に転戦した方の話を聞く。 女の兵隊や、捕虜の殺し方、それはむごいとか残忍とかそんな言葉じゃ言い表わせないほどのものだ。 俺は航空隊に転科したことに、一つのほっとした安堵を感じる。つまるところは同じかもしれないが、直接に手をかけてそれを行なわなくてもよい

    「きけわだつみのこえ」から聞こえてくる声 - G★RDIAS
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    ushiwatat 2007/04/29
    検閲になった部分はどうなったのだろう。>テキストクリティーク
  • ウェブに「他者」は現われるのか? - G★RDIAS

    kanjinaigordiasの主催者のひとりとして、いままで何度かコメントを削除してきた。そのうちの一件の削除に関して、コメントで渡邊良樹さんという方が違和感を唱えられた(削除されたコメントは別の方のものである)。そのコメントの中で、下記の部分は、改めてエントリーを立てて考えてみるに値すると思ったので、とりあえずここにエントリーを立ててみる。 その部分を引用する。 遠く離れた難民とか言葉を交わすこともなかったホームレスに対してはきわめて共感的なのに、現実に対話している相手とのやり取りがすぐに切れるのも不思議です。反論も何もして来ない相手にだけは、ほしいままに同情できるという風に見えてしまいます。 kanjinaiは、自分が管理人の役割をする掲示板(類)においては、書き込みは管理人が恣意的に問答無用で削除できる、削除の理由は開示しなくてよい、削除に関しての議論は受け付けない、という方針で

    ウェブに「他者」は現われるのか? - G★RDIAS
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    ushiwatat 2007/04/27
    ウェブにおける他者論。ウェブでの思索の可能性をこのエントリ自体が示している。|「他者との出会い」というような奇跡をここで得ようとは思っていない。|
  • 「33個」目の石−−バージニア工科大事件続報 - G★RDIAS

    バージニア工科大学事件の追悼がキャンパスで行なわれているが、キャンパスに置かれた犠牲者追悼のための「石」に、33個目の石、つまり容疑者のチョ・スンヒのためのものが追加されたとのことである。 Associated Press の Matt Apuzzo は次のように書いている。 "With this evil, there is still goodness." The mourners gathered in front of simple stone memorials, each adorned with a basket of tulips and an American flag. There were 33 stones - one for each victim and Cho Seung-Hui, the 23-year-old gunman who took their l

    「33個」目の石−−バージニア工科大事件続報 - G★RDIAS
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    ushiwatat 2007/04/22
    |容疑者の分まで置いたというのは「彼の家族も、他の家族と同じくらい苦しんでいるから」|
  • ホームレスの人を助けなかった私 - G★RDIAS

    前エントリーでは、搦め手から迫ろうと思ったが、うまく成功しなかったので、今回は正面から行きます。これは、x000000000さんのエントリーに発する論争を腑分けするための私なりの第一歩の問いです。x000000000さんは遠いところにいる人々をテーマにしていますが、私はそれを問う前にまず目の前の人のことを考えてみます。 寒い夜、道を歩いていると、ホームレスの人が道ばたで倒れていた。私は警察を呼ぶこともせず、救急車を呼ぶこともせず、黙ってそこを通り過ぎた。夜でもあり、人気は少なかった。 この場合、「間接的ではあろうが、私は他人を見殺しにすることに加担した」と言えるであろうか。 みなさんはどう思いますか? なお、極限状態のケースを創作することで倫理の問題を考えることはよろしくないという趣旨の意見がありましたが、上記の例は私が実際に大阪市で遭遇し、私が実際に取った行動であるということを、(痛みと

    ホームレスの人を助けなかった私 - G★RDIAS
  • モテとはひとりの女を大切にすることである - G★RDIAS

    モテ/非モテということが、男子のあいだで話題になっているようだ。これについては、人生の先輩として言いたいことがいろいろあるので、少しだけ書く。 モテは、「ちょいモテおやじ」みたいに、いろんな女にちやほやされて、性的な視線を送られることというふうに理解されることが多いと思うが、そこをコペルニクス的転回しないといけないように思うのである。 そもそも、「いろんな女からちやほやされたい、あわよくば、いろんな女とエッチしたい」という願望は、「権力欲」にほかならない。このような権力欲に裏付けられたモテにこだわっているかぎり、光明はさしてこないだろう。(沼崎一郎はこれを「男力」として批判している)。 そのような観念に絡め取られたうえで発せられる「モテ/非モテ」のパラダイムを、脱出しないといけないのではないのか。 では、コペルニクス的転回後のモテとは、いったい何なのか? 私が思うに、モテる男とは(とりあえ

    モテとはひとりの女を大切にすることである - G★RDIAS
    ushiwatat
    ushiwatat 2007/04/14
    なぜか笑いがこみ上げてきた。 |コペルニクス的転回後のモテ|
  • 社会学と「生き方としての学問」 - G★RDIAS

    友人から次のを紹介されたので、入手してみた。非常に興味深いであった。 高齢化社会と日人の生き方―岐路に立つ現代中年のライフストーリー 作者: 小倉康嗣出版社/メーカー: 慶應義塾大学出版会発売日: 2006/12/01メディア: 単行購入: 1人 クリック: 13回この商品を含むブログ (8件) を見る 小倉康嗣さんは、みずからの社会学のスタンスを、こういうふうに述べている。 書の底流にある〈生き方としての学問〉とは、世界と自分(あるいは認識論的次元と存在論的次元、学問形成と人間形成)とを切り離さない学知のあり方の探求である。さまざまな葛藤に直面しながらも、しなやかに生き抜いている現代中年の人びととの出会いのなかで、私自身、みずからの世界観がゆさぶられ、みずからの「生き方」を問い、みずからの「生き方」が触発され、そして変容していった。書には、そんな私自身の〈生き方としての学問〉

    社会学と「生き方としての学問」 - G★RDIAS
    ushiwatat
    ushiwatat 2007/04/07
    小倉康嗣『高齢化社会と日本人の生き方』書評。 |小倉さんがここで述べていることは、私の視点から言えば、社会学に対する「生命学的アプローチ」以外の何ものでもない|
  • 「生命学」という発想について - G★RDIAS

    kanjinaiによる「生命学とは何か」という論文が、4月1日に刊行されました。 生命学とは、自分をけっして棚上げにすることなく、生命について深く考え表現しながら、生きていくことです。「生命学」という言葉を発案してからはや20年、ようやくここまで言葉を絞り込めました。これも、一緒に考え続けてくれた仲間がいたからです(感謝)。 生命学は、それぞれの生の現場で、それぞれの形で深められるべきものなので、誰にでも通用する<普遍的な>生命学というものはありません。この点が、自然科学とは根的に違ってきます。 Aさんの生命学、Bさんの生命学、・・・・・・というふうに。そしてそれでよいのです。それでもなお「学」なのです。 kanjinaiは、kanjinai独自の生命学を深めていくことになるわけで、それは「悔いなく生き切ること」を中心に深めていく生命学となる、ということが最近ようやく分かってきました。

    「生命学」という発想について - G★RDIAS
    ushiwatat
    ushiwatat 2007/04/05
    「自らの生命」を語りつつなお学でありうる視点の創造。
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