2015/3/12-3/13 〈思考する〉という営みは――それが創造的なものであるかぎり――メタファーを避けて通ることができない。とりわけ、その思考があらゆるものを対象とし、したがってまた自己自身をも対象としようとする哲学の場合、〈鏡〉というイメージは抗いがたい誘惑となる。 実際、西洋思想は〈思考が思考それ自身を思考する〉という事態を示すため〈鏡〉のメタファーを繰り返し援用してきた。だが、比喩がただ暫定的な表現でなく、他の表現とは交換不可能なものと見なされるとき、それはH. ブルーメンベルクのいう「絶対的メタファー」となる。例えば、ライプニッツは精神について、永遠に世界を映し続ける「生きた鏡」だと述べた。するとやがて、この比喩のなかに彼の形而上学全体が集約され、いわばこの比喩に拘束されはじめる。思考が利用しようとしたイメージは、思考に反作用し、思考を支配していくのだ。ライプニッツ以降の思想
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