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池田信夫と歴史に関するyukio2005のブックマーク (6)

  • 19世紀には労働者はみんな「派遣」だった - 池田信夫 blog

    派遣や請負のような形で、企業の内部に契約労働者がいるのは、新しい現象ではない。むしろ資主義の初期には、親方が職工を契約で雇って職場を点々とする内部請負制が主流だった。これは周知の事実なので、私の昔のの記述を丸ごと引用しておく。19 世紀中葉のアメリカでは,工場の中で一定のまとまった工程を請負人(contractor) と呼ばれる熟練工が管理し,その配下の職工を使って生産を行う「内部請負制」と呼ばれるシステムがとられていた.これはギルドの影響を残すイギリスの制度が輸入されたもので,請負人自身は被雇用者であったが,資家と請負価格などについての契約を結んで職場を管理し,その配下にある職工たちを歩合給でやとって作業を行なった.[...]日でも,第一次大戦ごろまでは「親方」あるいは「頭」と呼ばれる職長が職場を管理する「間接的管理体制」が造船業などの重工業に広く見られた. 親方は入札によって

  • 変わる日本史の常識 - 池田信夫 blog

    受験勉強のころお世話になった参考書が、10年ぶりに改訂された。いろいろ話題になっているが、古代史がかなり大幅に書き換えられている: 「魏志倭人伝」は存在しない:三国志の一書である魏書に「倭人の条」があるだけで、「倭人伝」という書物はない。その内容も後代になって書かれた伝聞や推測で、信頼性は低い。 「任那日府」は存在しなかった:4世紀ごろ、朝鮮半島の南部に加耶と呼ばれる小国の連合があったが、任那という統一国家はなく、日の植民地でもなかった。これは『日書紀』の誤った記述。 世界最大の墓は「仁徳天皇陵」ではない:堺市にある大仙陵古墳は、つくられた時期が仁徳天皇の在位期間と違うので、彼の墓ではありえない。被葬者が大王(おおきみ)であることは確実だが、内部調査が許されないので誰かわからない。 「聖徳太子」は架空の人物:厩戸王という推古天皇の甥が、氏寺として斑鳩寺(のちの法隆寺)を建立したことは

  • 資本主義という奇蹟 - 池田信夫 blog

    また磯崎さんからのTBをネタにして恐縮だが、「個が確立していない社会で市場経済をやるというのは、結構キツいんじゃないか?」という問題を、私もいま講義でテーマにしている。特に重要なのは、人類の所得が産業革命以後、わずか200年で1万倍以上になったのはなぜか、という謎だ。ちょうどその講義ノートを書いていたので流用すると、これには古来、多くの答があるが、私はこの資主義という奇蹟は、17〜8世紀のイギリスに一度だけ起こり、他の経済的に成功した国は、それを輸入したのだと思う。その要因として有名なのは資蓄積(Marx) 近代的個人の成立(Weber) 財産権の確立(North-Thomas) 法の支配(Hayek) 科学と技術の融合(Mokyr)こうした要因がすべてそろったことが近代西欧の成功の要因だったが、このうちどれを重視するかは人によって違う。かつて重視された1は、現在ではあまり問題

  • 福澤諭吉―文明の政治には六つの要訣あり - 池田信夫 blog

    私は慶応で博士号をもらったので、一応、慶応のOBでもあるのだが、彼らの愛校心の強さは東大とは比較にならない。その理由は、やはり「福沢先生」の魅力だろう。慶応の掲示板では、教師のことを「**君」と書く。「先生」は福沢先生ひとりだからである。開国に直面して、列強・アジアとの関係や日人のアイデンティティを論じた彼の思想は、現代にも通じるものがある。 ただ、福沢を信奉する人々のつまづきの石になるのが、晩年の「国権論」への傾斜である。特に彼の主宰した新聞『時事新報』は、日清戦争を積極的に支援し、中国や朝鮮を蔑視するような社説を掲げた。こうした晩年の福沢については、丸山眞男でさえ、列強のアジア支配に対抗し、中国革命と連帯するため対外膨張主義に傾斜した、と一定の理解を示しながらも批判している。 従来の研究では、『福沢諭吉全集』に収録されている『時事新報』の無署名の社説の「我輩」を福沢と解釈している

  • 放送業界と江戸時代の「幕藩体制」 - 池田信夫 blog

    ASCII.jpのコラム「地デジのIP放送、なぜ東京ローカル?」に、鬼木甫氏(大阪学院大学教授)からコメントをいただいたので、そのまま掲載する:「地デジのIP放送、なぜ東京ローカル?」を読んで、筆者は江戸時代の幕藩体制を連想します。「自由な移動を許さない」点で両者が共通しているからです。 江戸時代には国民がそれぞれの藩内に閉じ込められ、藩外への移動は関所によって制限(規制)されていました。このシステムは、藩主と藩の支配者(上級武士)が藩を統治し、藩内の農民から富(租税)を集める役を果たしていました。もし藩外への移動を自由化すれば、農民は暮らしやすい場所に移ることになり、農民からの収税の上に成り立っている体制が崩れるからです。そして全国にわたる藩の頂点に幕府があり、将軍を名目的リーダーとした幕閣が幕藩体制を動かしていました。つまりこのような幕藩体制は、武士による農民の支配を維持し、「中世的

  • 靖国史観 - 池田信夫 blog

    安倍首相が靖国神社に供物を奉納したという話が、また騒ぎを呼んでいる。しかし、そもそも靖国神社とは一般に信じられているように、国家のために戦死した人々をまつる神社ではないのだ、と書はいう。 靖国神社の始まりは、1862年に行なわれた「招魂祭」で、これは安政の大獄などで徳川幕府に殺された勤王の志士を慰霊したものだ。それが明治維新によって、彼らが「官軍」となってから制度化されたのが招魂社であり、西南戦争の後これが靖国神社となった。したがって明治政府と戦った西郷隆盛は、靖国にはまつられていない。 要するに靖国神社は、天皇家のために戦死したテロリストを鎮魂する神社だったのである。それが国家の神社になったのは、たまたま天皇家が徳川家との内戦に勝ったからにすぎない。まさに「勝てば官軍」であり、歴史はつねに勝者によって書かれるものだ。「東京裁判史観」を批判する人々は「靖国史観」も批判すべきだ、と著者

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