昨年8月の台風10号豪雨で行方不明になっていた岩泉町穴沢の岩舘サツさん=当時(91)=の遺体が同町中里地内で見つかり、1日遺族に引き渡された。義母の帰りを待ち続けていた慶子さん(78)にとって同日は豪雨で犠牲になった夫五郎さん=当時(76)=の誕生日という特別な日。慶子さんは「見つかって本当に良かった。ほっとしている」と涙を拭った。 「長い間、本当に大変だったね」。同町穴沢の慶子さん宅に設けられた祭壇。笑顔のサツさんの写真を見つめ、慶子さんが語り掛けた。祭壇には五郎さんの誕生日を祝うために用意していた花が並び、「この日に家に帰ってこれて、お父さんも喜んでいるんじゃないかな」と静かに語った。 被災時、自宅から3人で避難しようとして小本川の濁流にのまれた。慶子さんは近所の住民に助け出されたが、五郎さんの遺体は翌日見つかり、サツさんは行方不明となった。 県警によると、10月18日に岩泉町中里の小
盛岡市の映画文化を陰から支えてきた小笠原正治(しょうじ)さん=同市緑が丘=が24日午後4時40分、誤嚥(ごえん)性肺炎のため83歳で亡くなった。半世紀以上にわたり映画の絵看板を描き続けた功績が認められ、昨年文化庁長官表彰を受賞。温かなタッチで描かれた看板は、映画ファン以外にも多くの人の目を引いてきた。盛岡の映画文化の一翼を担ってきた唯一無二の存在の他界に、関係者からは惜別の声が聞かれた。 小笠原さんは1954年、旧盛岡日活劇場に就職し本格的に映画看板の世界に入った。専門知識はなく、全てを独学で身に付けた。同市中央通の盛岡ピカデリーの看板は、69年の開業から今年5月までずっと描き続けてきた。 【写真=丁寧なタッチで絵看板を描く小笠原正治さん=2016年12月、盛岡市緑が丘】
陸前高田市米崎町の脇之沢漁港で24日、東日本大震災の津波で流されたとみられる乗用車が海中から引き揚げられ、車内から白骨化した1人の遺体が見つかった。身分証明書などは見つからず、年齢、性別は不明。県警が身元特定を急いでいる。震災から4年4カ月以上が過ぎたが、県内ではまだ1129人が行方不明のままとなっている。 車は同漁港勝木田地区の沖合約100メートル、水深約3メートルに沈んでいた。同漁港で作業する養殖業者が震災がれきの撤去を市に要請し、委託を受けた地元の工事関係者が今月上旬に発見した。同日、クレーン船で車両を引き揚げたところ、大腿(だいたい)骨とみられる骨が見つかった。 車は岩手ナンバーで青色系の乗用車。腐食が進み、車内には大量の泥が堆積していた。 【写真=クレーンで海中から引き揚げられる車両。東日本大震災で被災したとみられ、内部から1人の白骨遺体が見つかった=24日、陸前高田市米崎町】
11日で東日本大震災から4年。大槌町吉里吉里の吉里吉里保育園理事長東谷(あずまや)藤右エ門(とうえもん)さん(81)は、津波で犠牲になった妻ケイさん=当時(74)=との思い出を支えに、保育園の再建、運営に奔走してきた。ケイさんは藤右エ門さんを自宅で待ち続けていたとみられ「あのとき逃げろと言っていれば」と今も自責の念は消えない。地域の未来を担う園児たちの笑顔を、愛妻の分も懸命に生きる自分の姿を、ケイさんがいつまでも見守っていてくれるよう願い、11日は護持会長を務める吉祥寺(同町、高橋英悟住職)の巡回法要に同行する。 あの日、ケイさんは近くの生協集配所にいて、大地震後すぐに自宅に戻った。藤右エ門さんは「ここにいろ。俺は園児を避難させに行く」と言い残し保育園に向かった。 園児は既に高台の吉里吉里小に避難していた。無事を確認できたため自宅に戻ろうとすると、黒い波が校門前の坂をせり上がってきた。 自
県警は18日、東日本大震災で行方不明になっていた大槌町末広町の後藤常平さん=当時(60)=の身元が判明したと発表した。 県警によると、身元の分からない遺体66体のうちの1体で、2011年3月18日、火災のあった大槌町上町で見つかった。 県警によると、遺体は損傷が激しくDNA鑑定はできなかったが、身に着けたネックレスなどを県警ホームページで公開したところ、家族から「父のものではないか」と照会があった。 ネックレスは長さ調節がされており、後藤さんにネックレスを売った町内の店に確認、他の販売先を追跡調査するなどして後藤さんのものと特定。ほかに衣類の特徴などから、後藤さんと確認した。遺骨は18日、家族に引き渡された。県内の震災遺体で身元が判明したのは今月10日以来。
「震災の『真実』を教訓に、妻と同じような人を出さないでほしい」。釜石市甲子町の会社員木村正明さん(58)は東日本大震災の津波で行方不明の妻タカ子さん=当時(53)=を思い、強く願う。市内の学校事務職員だったタカ子さんは勤務中に被災。学校に残り津波に巻き込まれたとみられる。「なぜ」。その思いは3年たった今も消えない。子どもたちの避難行動は「釜石の奇跡」とも言われるが「犠牲者がいたことは知られず、言葉が独り歩きした。事実に目を向け、後世に伝えなければならない」。心から訴える。 木村さんは震災でタカ子さん、足が不自由だった母光子さん=当時(81)、義母佐藤モンさん=当時(80)、山田町=の3人を失った。母、妻との穏やかで笑いが絶えない生活は一変した。 震災時、木村さんは市内の職場にいた。同市鵜住居町の自宅に向かったのは12日。約10年前のけがが原因で松葉づえをついて歩くため、到着したのは約6時間
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