宇土市で、親も子も一緒に、論語(四書・五経)を学んでいます。 このブログは、中国古典の『論語』 『大学』『中庸』『孟子』『菜根譚』等、他に先人の教訓や家訓、ことわざも紹介ます。 ☆☆ 『宇土親子論語教室』 開催日:毎月第一土曜日、午前10時~12時、(熊本県)宇土市民会館2階第3会議室。たくさんの参加をお待ちしています。 ハーバードビジネススクールの教訓「経営者になるための部課長心得12ヵ条」 おはようございます。爽やかな朝です。 朝の読書より、作家の城山三郎氏の対談集「プロフェッショナルの条件」(昭和57年発刊)に、三菱商事第一食品部の相沢徹氏との対談の一節に、ハーバードビジネススクールで学んだことで、「経営者になるための部課長心得12ヵ条」が書かれていた。 (1)長期ビジョンと短期ビジョンの双方をもて。 (2)「円滑な複合的人間関係」を保持して「企業の分権化」に対処せよ。 (3)「権限
近ごろ気になることばがある。「子どもたち」だ。 「ども」も「たち」も共に複数を表すものの、「ども」は相手を低く見る感じだ。「野郎ども、馬鹿(ばか)ども」と。「たち」は相手を高く見ている感じ。「先生たち」、古くは「公達(きんだち)(貴族グループ)」と。 すると、子が一人前でないと下に見て「子ども」となるが、もし「子たち」と言うと、子に対して大事にしているという感じ以外、その言いかた自体が上品な感じを与える。 だから「子どもたち」と言うと、なんだか子を下げたり上げたりの感じを否めない。あるいは「子ども」で「子」を指し、「たち」をつけて複数の意味としているのかもしれない。もっとも「たち」の元来の意味を離れ、子自体を指して「子どもたち」と使われるようにもなったらしい、と諸説ある。 それなら響きのいい「子たち」を使ってはどうか。私は反省して最近は「子たち」と言っている。ただし「子どもっぽい・子どもの
今回は廖保平著『打捞中国愤青(直訳:中国の憤青をすくいあげろ)』の最終回。前回は西洋の憤青と中国の憤青との違い、中国の憤青が生まれた国家観等について取り上げたが、今回はまず、本書第2部「憤青の精神分析」に的を絞り、彼らの内面についての記述を取り上げたい。 この章は、小見出しを見ているだけで十分刺激的である。たとえば、「憤青の脳みそは『反智主義』で締め付けられている」「憤青の二重人格を読み解く」「どうして憤青のロジックは駄目だと言えるのか」など、これでは憤青から目の敵にされても仕方ないかな、と思われるような表現が踊っている。 ただ、その中で述べられている内容は大変分かり易く、筋が通っている。たとえば上に挙げた一例目だが、「反智主義」というのは、知識人及び知識の探求そのものを敵視したり信用しなかったりする態度のことを指している。そして、中国には昔からこの反智主義が根付いている。たとえば老子(春
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