その後、モンゴルは一旦北に引き上げ、その後を宋軍は北上して洛陽・開封を手に入れた。しかしこれはモンゴルとの和約違反となり、激怒したモンゴル軍は1235年に南進を開始する。この戦いにおいて孟珙がモンゴル軍相手に大活躍し1239年に襄陽を南宋が奪還した。その後は、しばらくは一進一退を繰り返すことになる。 やがて、開慶元年(1259年)に釣魚城の戦い(中国語版)が行なわれ、モンケ親征軍が出陣した。 滅亡へ[編集] しかしモンケはこの遠征途中で病死する。このときにクビライが攻めていた鄂州に援軍にやってきた賈似道はこれを退却させた(この戦いでは賈似道とクビライとのあいだに密約があったと後にささやかれることになる)。 モンゴルを撃退した英雄として迎えられた賈似道は、その人気に乗って宰相になり、専権を奮う。賈似道は巧みな政治手腕を示し、公田法などの農政改革に努める一方で人気取りも忘れず、その後15年にわ