さて、前回述べたように、河野談話を考える上で重要だったのは、その道筋が1992年1月初頭の朝日新聞の報道からはじまる1週間足らずの間に「十分な調査さえ行われることなく」決まってしまったことだった。 混乱した状況の中行われた首脳会談で、日本側は繰り返し謝罪を行う一方で、二つのことを約束している。すなわち、この問題の真相究明と何らかの「誠意を見せるための」措置の検討である。実は日本政府は朝日新聞の報道からわずか3日後の1992年1月14日、既に「補償の代替措置」を検討することを公にしていた。こうして、慰安婦問題に対するその後の展開、つまり、河野談話からアジア女性基金への流れは出来上がってしまう、ことになる。 首脳会談の後、日本政府は泥縄式に慰安婦問題に関する歴史的史料の発掘に取り組んだ。韓国政府に対して約束したからだけでなく、自らが行動するための歴史的根拠を確定しなければならないからである。こ