昭和13年10月、蓮田は一度目の出征をしている。彼は戦場で大体次のような事を書いている。 ”内地の子供たちから来る慰問文を読むと、「早く蒋介石を殺してください」というようなことが書いてあり、やむを得ないと思いながらもぞっとする。うちの息子は、戦地の父など思い出しもせず遊び呆け、たまにクレヨンで書いた絵を送ってくるくらいだが、私はこれにほっとする。もし私の息子が「蒋介石を殺してください」などと書いてきたら、堪らない気がする。” また日本武尊の 倭は 国のまほろば 畳なづく 青垣山 こもれる 倭し うるはし という歌の解説に際して、戦場で死に際に「お母さん」と言い残す兵士と通ずるものがあると書いている。よく、兵士たちは「天皇陛下万歳」ではなく「お母さん」と叫んで死ぬと、とくとくと語る人間がいるが、蓮田からすれば、これらみな同義語なのである。 復員してきた蓮田は、昭和16年9月の『文芸文化』に「