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築山殿でも秀忠の母でもない…「後家好み」の家康が"最も信頼できる妻"として秀吉にも紹介した女性の名前 歴史小説家が考える「20人近くいた側室のナンバーワン」
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築山殿でも秀忠の母でもない…「後家好み」の家康が"最も信頼できる妻"として秀吉にも紹介した女性の名前 歴史小説家が考える「20人近くいた側室のナンバーワン」
織田信長には濃姫、豊臣秀吉には北政所という正室がいたことが知られているが、徳川家康は築山殿を死な... 織田信長には濃姫、豊臣秀吉には北政所という正室がいたことが知られているが、徳川家康は築山殿を死なせて以後、妻の存在が見えにくい。『家康を愛した女たち』を書いた植松三十里さんは「築山殿が死んだ年、家康は武田家家臣の娘、阿茶の局と出会い、側室に。彼女は、かなり特別扱いされていることからしても、相当“仕事のできる”女性だったのでは」という――。 家康の側室に経産婦が多かったのは確実に子を産ませたかったから? 徳川家康には、正室の築山殿、継室である羽柴秀吉の妹朝日姫がいて、その他にもたくさんの側室がいました。20人近くいた、といわれています。 男子を産んだ側室たちをざっと挙げてみても、於愛の方(西郷局)は、夫の戦死後に子連れで家康の側室になり、3男・徳川秀忠(2代将軍)と4男・松平忠吉(清洲藩祖)を産んでいるし、一度は穴山信邦(穴山信君の弟)に嫁いだともいわれる於都摩の方(下山殿)は、武田家滅亡後

