タグ

コラムに関するgurivoのブックマーク (4)

  • オリンパス事件を受けて正義を考える

    オリンパス事件を受けて、日企業の統治が問われているという話はよく聞きます。ですが、問題なのは企業経営者だけではないように思います。日社会の全体における「正義の感覚」が脆弱化している、そうした大きな文脈での理解も必要のように思います。 考えてみれば「正義」という言葉自体がずいぶんと「遠い」感覚があるのです。最近ですと、ハーバード大学のマイケル・サンデル教授が「正義について考える」という授業をしているということが評判になり、が売れたり、実際にサンデル教授が来日して「正義の話」をしたりするということがありました。 あのサンデル現象というのも、一時的な流行であると同時に「正義」という言葉が「海の向こうにある話」というイメージを与え、逆に日々の生活の中には「正義との距離感」がある、そんな感覚を増幅したように思います。実際はサンデル教授の思想は、同じ正義でも「コミュニティにおける多様性の共存」が

  • チューサン階級炸裂第二弾! « クーリエ・ジャポンの現場から(編集部ブログ)

    クーリエ・ジャポンで4年半にわたり連載中の「越境者的ニッポン」。オーストラリア在住の博奕打ちで作家の森巣博さんが、政府やマスコミ、角界、芸能界にいたるまで“不可解な日”を徹底的に批判する痛快コラムで...クーリエ・ジャポンで4年半にわたり連載中の「越境者的ニッポン」。オーストラリア在住の博奕打ちで作家の森巣博さんが、政府やマスコミ、角界、芸能界にいたるまで“不可解な日”を徹底的に批判する痛快コラムです。読者の方から熱烈な支持をいただく一方で、「不愉快」「下品」「編集部の見識を疑う」等々厳しいご意見も寄せられており、常に反応は真っ二つ。どちらの声にもうなずきつつ、次回はどれほど物議を醸してくれるだろうかと震えながら原稿を待つ日々……。 そんな抗議殺到の人気連載が単行として発売されました! 好評既刊『越境者的ニッポン』に続く現代新書版の第二弾で、クーリエ・ジャポン2009年5月号掲載

  • 日本は原発を捨てるべきか

    福島第一原発の事故で、これから日で原発を建設することは絶望的になった。各地で、建設中の原発も工事が止まるなど、見直しが相次いでいる。他方、オバマ米大統領は、原油の輸入量を向こう10年で1/3削減する「エネルギー安全保障政策」を発表した。この中で彼は「公益企業は2035年までに電力の80%を風力、太陽熱、原子力、天然ガスなどのクリーン・エネルギーでまかなうことを義務づける」として原子力をクリーン・エネルギーと位置づけた。 原子力がクリーン・エネルギーだという話には、福島原発の事故を見ている日の国民は抵抗を覚えるだろう。しかし原発は、少なくとも死者数を基準にすると、他の発電所より安全である。IEA(国際エネルギー機関)の統計によれば、発電量1TWh(兆ワット時)あたりの死者は、石炭火力の161人、石油火力の36人に対して原子力は0.04人。そのほとんどはチェルノブイリ原発事故で、西側諸国で

    日本は原発を捨てるべきか
  • 原子力は「神の領域」なのか、「人間の領域」なのか?

    福島第一原子力発電所の事態は、アメリカでは刻一刻と報道される中、現地の14日の月曜日から翌15日にかけては危機感が高まっています。日の失態を責める論調は皆無ですが、逆に「何事も周到に準備する日」で事故が起きたのだから「アメリカの原発も危険では?」という印象論が拡大しています。 こうした原発への恐怖の奥には人間の自然な生存能、危険回避の能があるわけですが、恐怖をコントロールできないという背景には二つの問題があるように思います。それは原子核反応に関する理解と、その表現における「ことば」という問題です。 例えば我々は「火」を使います。火を使って暖を取り、調理をしたり、その他のエネルギーにも使います。火は照明にも使われ、五輪の聖火など精神のシンボルにもなります。ですが、人間はサルとは違い、「火」を恐れることはしません。「火」とは「神の領域」ではなく「人間の領域」にあるものと信じて疑わないか

  • 1