タグ

ブックマーク / gordias.hatenadiary.org (5)

  • ベーシック・インカム - G★RDIAS

    昨日、東京と大阪で以下のような行進があったようだ。 不安定生活限界だ フリーターら「生存メーデー」叫ぶ 生きさせろ――。フリーター、日雇い派遣労働者、障害者、ホームレス生活保護の受給者など、低収入で不安定な生き方を強いられているさまざまな立場の人々が一緒に歩き、踊り、叫んだ。30日に東京で開かれた「自由と生存のメーデー07」。同じ日に大阪でも、その名もずばり「明るいビンボー★メーデー」があった。格差と競争の強まる社会で最も生きづらさを抱える人々が、互いにつながり、声を上げ始めた。 午後3時半すぎ、東京・歌舞伎町。靖国通りが始まるJR線の「大ガード」の下から、大音量のダンス音楽とともにデモ隊が飛び出してきた。DJが乗る先頭車両に続いて、手をふり、足を踏みならしながら進む。 「生活を変えろ」「ホワイトカラーエグゼンプション ただ働き?ふざけるな」。思い思いのプラカードや横断幕が、強烈なリズム

    ベーシック・インカム - G★RDIAS
  • マイルス・デイビスの音楽愛 - G★RDIAS

    マイルス・デイビス自叙伝〈1〉 (宝島社文庫) 作者: マイルスデイビス,クインシートループ,Miles Davis,Quincy Troup,中山康樹出版社/メーカー: 宝島社発売日: 1999/12/01メディア: 文庫購入: 4人 クリック: 35回この商品を含むブログ (47件) を見る マイルス・デイビスの自伝はとてつもなく面白い。マイルスは勉強家だ。あの風貌と伝説からしてそういう感じはしないだろうが、自伝を読むといかに勉強好きかというのがわかる。それとともに、いかに音楽を愛していたかも分かる。愛していたというか、音楽それ自体になりたかったんだろう。 マイルス18歳のときの回想。 まいったことに、我を忘れて二人に聴き入っているのは、このオレだけじゃなかった。バンド全体が、ディズとバード、特にバードが演奏するたびに”絶頂”を迎えているみたいだった。バード! 信じられなかった。バンド

    マイルス・デイビスの音楽愛 - G★RDIAS
  • 創造説は見えすいた嘘、か? - G★RDIAS

    たまたま読んでいたに、次のような会話があった。 功刀(由紀子):社会的な受け入れ体制と科学者の積極的な努力がなければ、誤った考え方や偏見がいつまでも社会にはびこることになりますね。 赤松(良子):もう一つ教育の問題も大切です。ところによっては、地動説さえ教えられてない学校があるっていいますからね。 功刀:米国では聖書の中身を教えるように強制されている州もあるとか。カソリックの女学校で教育を受けた学生が、「創造説の講義を受けた」と言ってましたもの。 板東(昌子):そういう見えすいた嘘は論外として、教育にはたくさんの問題がありますね。たとえば・・・(以下ジェンダーの話) 『性差の科学』一九九七年(功刀由紀子・・愛知大学教授・農学博士、赤松良子・・元文部大臣、板東昌子・・愛知大学教授・理学博士)http://leo.aichi-u.ac.jp/~kunugi/seisa/j/senden.ht

    創造説は見えすいた嘘、か? - G★RDIAS
  • ホームレスの人を助けなかった私 - G★RDIAS

    前エントリーでは、搦め手から迫ろうと思ったが、うまく成功しなかったので、今回は正面から行きます。これは、x000000000さんのエントリーに発する論争を腑分けするための私なりの第一歩の問いです。x000000000さんは遠いところにいる人々をテーマにしていますが、私はそれを問う前にまず目の前の人のことを考えてみます。 寒い夜、道を歩いていると、ホームレスの人が道ばたで倒れていた。私は警察を呼ぶこともせず、救急車を呼ぶこともせず、黙ってそこを通り過ぎた。夜でもあり、人気は少なかった。 この場合、「間接的ではあろうが、私は他人を見殺しにすることに加担した」と言えるであろうか。 みなさんはどう思いますか? なお、極限状態のケースを創作することで倫理の問題を考えることはよろしくないという趣旨の意見がありましたが、上記の例は私が実際に大阪市で遭遇し、私が実際に取った行動であるということを、(痛みと

    ホームレスの人を助けなかった私 - G★RDIAS
  • 姥捨山問題をめぐって - G★RDIAS

    sugitaさんの「優生学・家族負担・尊厳死」で姥捨山問題が考察されている。 http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/20070405/p1 姥捨山問題は、次のようなことを問題にする。 出来ないからしない、というのなら話は分かる。ところがこれらのケースでは、「出来るのに、しない」のである。出来るのに、しない。それはなぜか。それをすることで、私が(あるいは私の身内が)これ以上苦しむのがいやだからである。痴呆性老人の世話を続けることで、あるいは赤ちゃんを産んで育てることで、私がこれ以上苦しむのがいやだから、私は彼らを見捨てる。人のためを思ってとか、そうするのが普通だからとか、様々な言い訳がなされるだろうが、心の奥底では、私がこれ以上苦しむのがいやだから彼らを見捨てるのだ。 http://www.lifestudies.org/jp/ubasute.htm 「

    姥捨山問題をめぐって - G★RDIAS
  • 1