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ブックマーク / hituzinosanpo.hatenablog.com (8)

  • 停電弱者。 - hituziのブログじゃがー

    3月の原発事故のあと、「原発がとまれば弱者が死ぬ」という主張があり、それは「ためにする議論」だと批判する議論がありました。じっさいには「弱者」のことなんか かんがえていないのに、原発を維持するためだけに もちだした論理だと。 わたしは、とつぜんの停電は死活問題であり、さけるべきだということ、そして、原発は不安定な電力供給源であるということ、だから安定的な発電方法をえらぶ必要があると かんがえます。 だから、「原発がとまれば弱者が死ぬ」という主張は、わたしも問題だと おもいます。しかし、「原発止めたら弱者ガー」と ばかにするのは、あきらかに不当だと おもいます。 さきほど まとまった文章を みつけましたので、ご紹介しておきます。 http://www.bakubaku.org/bousai-kaigohoken-joho-genkou.html 一部を引用します。できれば全文をよんでください

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  • 言語能力と刑罰―言語という障害。 - hituziのブログじゃがー

    2009年に「言語という障害―知的障害者を排除するもの」という論文を かいた。もくじは つぎのとおり。 はじめに 1. 言語権という理念 1.1. ひとつの言語とはなにか 1.2. 言語権のひろがり 2. 知的障害と「言語」 3. 言語学の倫理―ジーニーを実験台にさせたもの 4. 共生の条件とされる「ことば」 5. 知的障害者をとりまく社会環境―言語という障害と能力主義 5.1. 言語と世界観 5.2. 知的障害の判定テストと言語 5.3. 能力の個人モデルから「能力の共同性」へ 6. 言語主義からの自由、そして言語権のユニバーサルデザインにむけて おわりに 参考文献 こうした問題に関連して、最近 気になっていることがある。それは「言語能力」によって刑罰の軽重が左右されてしまうということだ。 浜井浩一(はまい・こういち)は『2円で刑務所、5億で執行猶予』光文社新書で、つぎのように のべてい

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  • 民族についての基本文献。 - hituziのブログじゃがー

    民族について、あるいは国民国家論。 小坂井敏晶(こざかい・としあき)『民族という虚構』東京大学出版会 酒井直樹(さかい・なおき)『死産される日語・日人』新曜社 ましこ・ひでのり『日人という自画像』三元社 アンダーソン『定 想像の共同体』書籍工房早山 田中克彦(たなか・かつひこ)『ことばと国家』岩波新書 西川長夫(にしかわ・ながお)『増補 国境の越え方』平凡社ライブラリー 花崎皋平(はなさき・こうへい)『増補 アイデンティティと共生の哲学』平凡社ライブラリー スチュアート・ヘンリ『民族幻想論』解放出版社 エリクセン『エスニシティとナショナリズム』明石書店 アイデンティティについては、つぎの4冊を。 石川准(いしかわ・じゅん)『アイデンティティ・ゲーム―存在証明の社会学』新評論 石川准『人はなぜ認められたいのか―アイデンティティ依存の社会学』旬報社 上野千鶴子(うえの・ちづこ)編『脱ア

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  • ドキュメンタリー映画『靖国』(ヤスクニは軍事施設だ)。 - hituziのブログじゃがー

    わたしは大学生のころ ペキン語(漢語)を かなり べんきょうしました。チューカ料理屋で4年間 バイトしながら調理補助と通訳みたいなことを していたので、それなりに上達しました。 さて、ペキン語を まなんだことの ある みなさん。中国台湾にいって、日人が ペキン語を はなすということが めずらしいというだけで、ほめられたり、感謝されたり、それだけで親近感を もっていただいたり…。たくさんの たのしい経験を したはずです。わたしも そうでした。その一方、日人が だれかに、日語を べんきょうしてくれて ありがとうということは、かなり すくないように感じます。西洋人が べんきょうすると、にやにやしながら おもしろがる ひとも いますが。 さて、ドキュメンタリー映画の『靖国』。異様な別世界のような きもちわるい空間。それが靖国神社です。わたしも一度いきましたから、よく わかります。ここに、た

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  • 質問に質問で こたえてみる。 - hituziのブログじゃがー

    はてサの皆様に質問がございます。 - はてな匿名ダイアリー 楽しく拝見させていただき、非常に勉強となっています。 日ははてサの皆様に質問がございます。 よく、ネット右翼の皆様は弱者救済を自己責任論で完結させようとしていらっしゃいます。 この辺の理屈は非常に単純明快でわかりやすいものがございます。 おそらく、私が愚考いたしますに、「俺ら頑張ってきたんだから楽するなんて許さないよ」という心境がございますのでしょう。 皆様は大変努力なされてきたのでしょう。一学生の私はただただ敬服するばかりです。 私にはその考えはとても理解しやすいものです。 対するはてサの皆様は弱者救済を声高に叫んでいらっしゃいます。 慈愛の心に満ち溢れる、自然と出てきた主張でありましょう。 人なのですから、助け合いの心は大切ですよね。 しかし、どのような行動にも「理由」はあるものだと私は考えております。 皆様なりの思うところ

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  • 「配慮の平等」という視点 - hituziのブログじゃがー

    先日おみせした「識字のユニバーサルデザインにむけて」という文章ですが、なかでも注目していただきたいのが、石川准(いしかわ・じゅん)さんの「配慮の平等」という視点です。いしかわさんは、盲人のプログラマで社会学者でもあります。いしかわさんは何度も何度も強調して、表現をかえて「配慮の平等」という理念を提示しています。その姿勢はとても参考になるものです。いしかわさんは、つぎのように議論しています。 多くの人は「健常者は配慮を必要としない人、障害者は特別な配慮を必要とする人」と考えている。しかし、「健常者は配慮されている人、障害者は配慮されていない人」というようには言えないだろうか。 たとえば、駅の階段とエレベータを比較してみる。階段は当然あるべきものであるのに対して、一般にはエレベータは車椅子の人や足の悪い人のための特別な配慮と思われている。だが階段がなければ誰も上の階には上がれない。とすれば、エ

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  • 「毎日 うんこ」ですって? - hituziのブログじゃがー

    わたしは うんこと なかよくやってます。たくさんの うんこ。いろんな うんこ。ひとは たべたら、うんこが でます。 黙って他人のうんこの臭いを嗅ぐのも重労働 - いちヘルパーの小規模な日常 ケア労働について ブログを かかれておられる id:sugitasyunsukeさんの記事です。 青い芝の有名な言葉に「寝たっきりの重症者がオムツを変えて貰う時、腰をうかせようと一生懸命やることがその人にとって即ち重労働としてみられるべきなのです」というのがあるけど、介助者にとっては時に「黙って他人のうんこの臭いを嗅ぐのも重労働」かもしれないのだ。そういうことを、すこし、思い出してみるのもいい。 そうですねー。わたしなどは、はなづまりなので、だいぶん 得を しているのかもしれません。うんこのケアは、けっこう たのしいです。 はなづまりって、基的に 睡眠が あさくなって、昼間に ねむたくなることが あっ

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  • 「おしつけるな」論法 - hituziのブログじゃがー

    なんでも いいけど、「おしつけるなよ」。よく みられる反応です。これほど便利な反論は ありません。なにか議論している ひとがいて、なにかを 提案している。その中身を 検討することなく、ただ、「おしつけるな」といえば、議論は おわってしまいます。 「意見を わたしに おしつけている」。「おしつけるのは わるいことだ」。「だから、おまえは まちがっている」。 どうでしょうか。こうなってしまえば、もはや提案したひとの「人格の問題」に なってしまいます。「おしつけている!」に とどまらず、「ファシズムだ」と名づけるならば、どうでしょう。おそろしや。「全体主義者」の登場です。恐怖政治が はじまってしまいます。オーウェルの「1984年」みたいです。………。 ちょっと まってください! そこまで連想を ひろげていくのは、あまりに「はやとちり」です。相手の すがたを よーく みてください。そのひとが提案し

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