ここでいう「我見」は舞台で舞う自分の目であり、もうひとつの「離見」とは舞台で舞う自分をみるもう一人の自分を指しています。 世阿弥はそういう二人の自分をもって能は大成するといい、これは「離見の見」といわれるものだそうです。 自分の心をコントロールするこの例を出しつつ、上田さんは<茶の湯もおなじだろう>と言っています。 茶の点前をする自分のほかに「もう一人の自分」がいて、茶の点前をする自分を見ている。そういう視線にたいして過ちのないように茶の点前をしなければならない。いわば主観性と客観性とをあわせもつ芸である。ということは、茶道という芸は自分の心をコントロールすることなのだ。自分の心が芸をコントロールすることではないのである。 この<自分の心をコントロールする>のであって、<自分の心が芸をコントロールすることではない>という一文にはやられました。 芸をコントロールしようとしてもダメなんですね。