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ブックマーク / blog.livedoor.jp/easter1916 (8)

  • ララビアータ:関曠野氏の新著 - livedoor Blog(ブログ)

    関曠野氏の最新著『福島以後―エネルギー・通貨・主権』(青土社)を読んだ。関氏と言えば、数々の独創的な思想史的著作や政治哲学的論考で既によく知られている。編でも氏の主張は、期待を裏切らない氏独自の洞察で満ちたものだ。 時事的発言も重要だが、何といっても注目すべきなのは、氏の思想史家としての大胆な見通しや解釈の見直しである。たとえば、家族の法がローマ教会のイデオロギー闘争の結果であったこと、そこで確立した両性の自由で平等な契約という観念が、後のロックの社会契約説の基礎を与えていること(ただしロックは、それを首尾一貫した形で展開したわけではない)。あるいは、天皇制と皇室についての見方においても、氏は深い思想史的教養に基づく独自な見解を示している。明治維新を、公的法理を欠いた権力の私的略奪として解釈する一方、近代天皇制がそもそものはじめから欠いていた理念的正統性に、人民の統合という内実を初めて与

  • ララビアータ:吉本隆明氏の原発論 - livedoor Blog(ブログ)

    8月5日日経の記事で、吉氏は述べている。「原発をやめる、という選択は考えられない。原子力の問題は、原理的には人間の皮膚や硬い物質を透過する放射能を産業利用するまでに科学が発達を遂げてしまったという点にある。燃料としてはけた違いにコストが安いが、そのかわり、使い方を間違えるとたいへんな危険を伴う。しかし発達してしまった科学を後戻りさせるという選択はあり得ない。それは人類をやめろ、というのと同じです。」 「燃料としてはけた違いにコストが安い」というような見解がどうして出てくるのか? 未だチェルノブイリもフクシマも、総計としてどれだけの費用がかかるのか分からないし、廃棄物処理の費用の総計もわからない。そもそも、どのように廃棄物処分するのか、最終処分場の場所さえ分からないのだから当然だが。しかし、当面明確なコストをざっと合計しただけでも、今後経済的に通用するためには、いざとなったときの政府保証が

  • ララビアータ:トロッコ問題 - livedoor Blog(ブログ)

    最近、サンデル教授の影響であろうか、倫理的難問が一見具体的な例題として問われることが多い。その典型例が、トロッコ問題と言われるもので、たとえば暴走するトロッコがあって、切り替え線で二つの線路に分かれているとする。一方に行けば多くの人を犠牲にするが、他方に行けば犠牲は一人で済む。その場に居合わせた者は、トロッコをどちらに導けばいいか?と問われるのである。この場合は、かけがえのない人命が功利主義的考慮に対象にされてよいかが問われているわけであり、我々はその問題状況をこの事例で明確に理解できるわけである。 しかし、果たして倫理問題がこのような形で当に理解できるものであろうか? 事例の説明が、判断できるにはあまりにも粗雑ではないだろうか?その場に居合わせた人がどのような立場の人間か問題にしなくてもよいのか?それぞれの線路の先にいて犠牲になる可能性のある人がそれぞれどのような人なのか、自分の家族や

  • ララビアータ:共有されるべき学問的伝統―吉本隆明と柄谷行人 - livedoor Blog(ブログ)

    現代日で指導的な役割を演じてきた二人に関する(合田正人『吉隆明と柄谷行人』)を読みかけていたが、少々引っかかるところがあるので特記しておきたい。 両氏の思想史的意義について論じるのは別の機会に譲りたいが、私が引っかかりを感じたのは、意味や言語の理論に関わる部分についてである。ソシュールやフッサールの意味の理論に比べて、フレーゲに始まる「言語論的転回」をどう捉えるにせよ、その基が共有されないと、非常に瑣末なところで議論が右往左往してしまう。たとえば、デリダとサールの間で何か論争がおこなわれたことがあるが、デリダの標的になったのがフレーゲに始まる言語哲学の流ではなく、オースティンの語用論的研究のさらに末端に位置するサールであったことはそのひとつである。彼らの論点の細部がどのようであったとしても、フォースの理論にはセンス(Sinn)の理論が先んじなければならないことは、フレーゲの基

  • ララビアータ:暴力について - livedoor Blog(ブログ)

    内田樹氏は、『ためらいの倫理学』の中で、「私は戦争について語りたくないし、何らかの「立場」も取りたくない」(p−18)と述べている。それは、NATOによるユーゴ空爆に対して、スーザン・ソンタグがきっぱりと支持を表明したことに対する批評の言葉である。氏の批評の中には、耳を傾けるべき重要な論点がいくつか含まれている。たとえば「現場を直接経験した、または目撃した人間には、それについて語り、判断すべき何らかの特権的資格がある」かのように言いたて、その体験者でない者たちの言説を抑圧することは、許されないといった論点である。 しかし、内田氏の主張はそれにとどまらない。たとえば、次のような記述が特徴的である。 「誰か」が戦争を始めた。「誰か」が戦争を終わらせるべきだ。問題は「誰か」を特定することだというロジック…このあまりに分かりやすい図式には一つだけ欠点がある。それは「主体」たちは、絶対に自分が「邪悪

  • ララビアータ:原発ジプシー - livedoor Blog(ブログ)

    堀江邦夫という方の『原発ジプシー』(1979)というがある。今から30年以上前に刊行されているもので、堀江氏がみずから下請け労働者として原発作業に潜入し、その現場の実態をレポートしたルポルタージュである。高度経済成長のただ中、その裏側で厳しく危険な下請け労働がそれを支えていることを克明に記録したものだ。 このが出版された頃、私は堀江さんを個人的にいささか応援したことがあった。どういうご縁であったか正確には覚えていないが、おそらく亡くなった母の後輩か何かのつてであったと思う。氏のお話では、このを出版した頃から、ご自宅に頻々と脅しの電話が入るようになったということである。「家族の命はないと思え」とか、「子どもがどこかで交通事故に遭うぞ」などいうたぐいの電話である。市民個人が気で大きな権力に挑もうとするとき、どんな目に遭うのか、我が国の憲法が保証しているはずの表現の自由が、現実にどの程度

  • ララビアータ:大澤真幸・宮台真司両氏の「正義論」 - livedoor Blog(ブログ)

    大澤真幸・宮台真司両氏による『「正義」について論じます』を興味深く読んだ。共感するところも多く、啓発される点もたくさんある読みごたえのある一冊に仕上がっている。さすがに当代の社会学を代表する俊秀だけあると敬服する次第。 ただ、いくらか気にかかる疑問点が残ったので、それについてメモしておこう。 宮台氏は「ミメーシス」(感染的模倣)という概念を練り直して、現代に生かそうとしている。なかなか興味深い試みと言えよう。「心底すごい人思える人に出会い、思わず「この人のようになりたい」と感じる「感染」によって、はじめて理屈でなく気持ちが動く」(p−80)というものである。 宮台氏のミメーシスは、「父親のようになりたい」という模倣(象徴的同一化)と「兄弟のようになりたい」という模倣(想像的同一化)とのいずれに近いのであろうか? 後者は、双対的ライヴァル関係、相互模倣関係からのっぴきならぬ敵対的関係の袋小路

  • ララビアータ:保守主義 追補 - livedoor Blog(ブログ)

    むかし、エドモンド・バークの『フランス革命の考察』を読んだ時、国王の支配が人民の総意に基づくものではなく、単に法と伝統にのみ基づくものであることが記されてあるのを見て、目からうろこが落ちる思いをしたものである。法の支配が、人民の総意という民主的原理とは違うことがあるということである。 わたくしの保守主義は、他の一般の保守主義者とい違うのみならず、もっての他のものとさえ映るかもしれない。保守主義によって革命や革命的行動を正当化する形になっているからである。 ここで考慮すべきは、バークの祖国と違って、我が国の政治的エートスには、保守主義的伝統が決定的に欠如している点である。そのため、保守主義が、何であれ現在の支配体制と実定的制度にしがみつくことと混同されてしまう。我が国では、政治支配を総体として合理化したり正当化する論理が発達しにくかった。そのような問いや論理をくじくものこそ、実は「天皇制」

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