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  • 『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』 エーコ&カリエール (阪急コミュニケーションズ) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋書店で購入 記号学者ウンベルト・エーコと脚家ジャン=クロード・カリエールがに関する蘊蓄をかたむけた対談である。 ジャン=クロード・カリエールについてはピーター・ブルック一座の座付作者くらいの知識しかなかったが、IMDBを見ると『ブリキの太鼓』、『存在の耐えられない軽さ』、『マックス、モン・アムール』、『シラノ・ド・ベルジュラック』、『カサノヴァ最後の恋』といった名作がずらりとならんでいる。ブニュエルの晩年の傑作群、『小間使の日記』、『昼顔』、『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』、『欲望のあいまいな対象』も彼の脚だった。昨年公開された『トスカーナの贋作』には役者として出演しており演出作品も多い。も書いていて『万国奇人博覧館』と『珍説愚説辞典』は邦訳されている。ボルヘスを自宅に招いたこともあるというから相当な大物である。 書は邦題からすると電子書籍に対抗して紙のを擁護した

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  • 『ガリ版ものがたり』志村章子(大修館書店) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋ウェブストアで購入 「絶滅危惧印刷、ガリ版」 ガリ版は謄写版印刷の通称で、版式でいうと孔版(こうはん)印刷の一種だ。文字どおり、印刷用の版に孔(あな)を空け、その穴からインキを通して印刷する。 なんて書いても、実物を知らない人にはなかなかイメージできないだろうなあ。 ざっくり言うと、プリントゴッコと同じような仕組みなんだけど……プリントゴッコも最後はインクジェットになっちゃったみたいだし、通じないかな。 ガリ版って、何歳ぐらいまで通じる言葉なんだろう。 私の通っていた小学校では、文集といえばガリ版印刷だった。ヤスリの上にロウをしみ込ませた原紙を乗せ、鉄筆でガリガリと文字を書いて(穴を空けて)版を作った。ガリガリと音がするから「ガリ版」。画数の多い漢字なんかを書いてると、すぐに原紙が破れて字がぐちゃぐちゃになった。 同世代はみんなこんな経験があるはずだと思い、先週会った友人(3歳年

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  • 『わかりやすく〈伝える〉技術』池上彰(講談社現代新書2003) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

  • 『太平記』 さいとう・たかを (中公文庫) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →上巻を購入 →中巻を購入 →下巻を購入 「マンガ日の古典」シリーズから出ているさいとう・たかをによる『太平記』である。 漫画だから吉川英治版をもとにしているのかなと思ったが、そうではなかった。オリジナルの『太平記』をかなり忠実に漫画化というか、劇画化しているのである。 怨霊話だらけの第三部を短くするとか、軍勢の数の誇張や史実との違いを注記するとかいったアレンジはほどこしてあるが、ほぼそのままなのだ。 詠嘆調の場面や、クライマックスの場面では原文が書きこんであって、禍々しい字面が迫力をいや増しに増している。意味はわからなくとも絵を見れば一目瞭然だから、古文が不得意な人は擬音の一種と思えばいい。 巻ごとに起承転結があって、ぐいぐい引きこまれる。古典の漫画化としては大和和紀の『あさきゆめみし』と双璧をなすかもしれない。 順に見ていこう。 上巻は後醍醐帝即位から鎌倉幕府滅亡までを描く。後醍醐帝

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  • 『渋沢栄一』鹿島茂(文春文庫) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋ウェブストアで購入 「官尊民卑と闘った男」 渋沢栄一には以前から興味を持っていたが、なかなかその人となりを詳しく知る機会はなかった。20年ほど前に古牧温泉を訪れたときに、そこに移設されていた旧渋沢邸を見たことがあっただけだ。書店で『渋沢栄一』を見つけたときに、著者が鹿島茂であることに驚いた。種々の雑誌等の洒脱なエッセイでお目にかかる仏文学者が、なぜ渋沢の伝記を書いたのかと疑問に思って入手した。 どんな人にも、大きく人生を変える出来事がある。渋沢にとってそれはまず郷里の血洗島村で、父の名代として代官に会ったときに受けた屈辱である。御用金を頼まれた方なのに、頼んだ方が渋沢の人格を全く認めずに権柄ずくめの態度をとった。当時としてはこれはむしろ当然のことなのだが、それに対して憤りを感じるところに、鹿島は渋沢の「新人類」を感じる。 もう一つは、幕末にパリ万博へ赴く徳川昭武のお供として、パリ

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  • 『「つながり」の戦後文化誌』長崎 励朗(河出書房新社) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋ウェブストアで購入 「大衆教養主義の顛末」 労音といえば、年配の読者はなつかしいものがあるだろう。わたしは1960年代後半の大学生のとき、3人でないと入会できないからと友人に言われて京都労音に入会した。低料金で音楽を鑑賞できることや友人と一緒に行動できることなどが誘因となり、京都会館で催された音楽会によく行ったものである。クラシックだけでなく、ジャズやシャンソン、ミュージカルはあったが、日の流行歌はなかったことをいくらか不思議におもったことが記憶にある。 書はこの労音の発祥地である大阪労音(大阪勤労者音楽協議会)の立ち上がりの1949年から、全盛期、そして衰退(大阪音楽協会と改称された1974年)にいたるまでを丹念に後づけ、かつダイナミックな分析をしている。大阪労音が成功すると、翌年、京都労音と神戸労音が誕生する。1952年には和歌山労音が発足する。そしてその翌年東京労音が

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  • 『徳川慶喜』家近良樹(吉川弘文館) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋ウェブストアで購入 「”捉え難き”最後の将軍」 徳川慶喜(1837-1913)という江戸幕府「最後の将軍」は、日史上あまり人気のある人物ではない。鳥羽伏見戦争のあと、江戸に「逃げ帰った」とみえる彼の行動がマイナスのイメージを創り出すのに大いに関係していることは確かだが、書(家近良樹著『徳川慶喜』吉川弘文館、2014年)の著者によれば、それどころか、慶喜には「ヒール」(悪役)のイメージを抱く者も少なくないという(同書、7ページ参照)。 慶喜が聡明で薩長にとって侮りがたい政治家であったことは間違いないが、著者のいう「スッキリとは捉えられない彼の複雑な性格と行動」が慶喜の評価を難しくしているのだろう。そのような制約はあるが、書全体を読むと、明治維新前夜の慶喜の言動を、勝った側の薩長ではなく、負けた当事者側からの視点でみることがある程度可能になるはずだ。 慶応2年7月20日、第14

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  • 『新京都学派』柴山 哲也(平凡社新書) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋ウェブストアで購入 「学問の世界のフィールドワーク」 京都学派とは、西田幾多郎、田辺元、和辻哲郎など京都帝国大学の哲学科を中心にして集まった哲学者の学風として、昭和初期に生まれた呼称である。戦後になると、桑原武夫に率いられた京都大学人文研究所の学者たちがジャーナリズムで活躍したことから、京大人文研に連なる人材を「新京都学派」と呼ぶようになった。わたしに新京都学派という呼称の憶えがあるのは、一九六五年の小松左京の論文からだが、もっと前からいわれていたのかもしれない。 いま一九六五年といったがわたしの大学四年生のときで、河野健二、上山春平、加藤秀俊、井上清、梅棹忠夫などの先生については、学内非常勤で教育学部や教養部で授業を聞いた。もっとも学内非常勤といっても教養課程や教育学部のことであったからかもしれない。同じ京大でも文学部には、京大人文研の、とくにジャーナリズムで活躍していた先生が

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  • 『近代日本と「高等遊民」』町田 祐一(吉川弘文館) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋ウェブストアで購入 「近代日の宿痾」 芥川龍之介の『侏儒の言葉』に「露悪家」「月並み」などとならべて、「高等遊民」が文壇で流通するようになったのは「夏目先生から始まってゐる」とある。しかし、言葉の誕生だけで言えば、漱石が高等遊民という言葉を使う以前に、中等学校を卒業しても入学難で上級学校にいけないとか、上級学校を卒業しても職がないということが社会現象になったことによって生まれた用語である。浮浪者やルンペン、漂泊者などの(下等)遊民との対比で「高等」遊民という言葉が生まれたのである。 漱石の造形した高等遊民像は『それから』の長井代助に体現されるような人間像である。しかし、単に一定の財産があり、「パンを離れ水を離れた贅沢な経験」をすることができるというだけの意味ではなかった。漱石は金力と権力が荒れ狂う「文明の怪獣」を『野分』や『二百十日』で激しく非難したが、現実社会についてそうした

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  • 『座談の思想』鶴見太郎(新潮選書) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋ウェブストアで購入 「座談会をバカにしてはいけない」 「座談会」は日独特の催しだ。もちろん外国でも対談、鼎談などないわけではないが、日の文芸誌などで企画される、どことなく雑談めいたあのいきあたりばったりの会合は、参加者のニヤニヤした写真など添えられどうも脱力的で、内容も方向もあるんだかないんだか。それこそ集団ツイートみたいなもので、気楽にぱらっと眺められるのが何よりの売りとも見える。いやいや、あれこそ日文化の神髄だよ、すごいんだよ、との意見もこれまでないではなかったが、多くは思いつきや直感的な指摘にとどまった。これに対し書は、座談会そのものがいかに近代日の思想形成に大きな役割を果たしてきたかを丁寧に裏付けようとした試みである。 鶴見氏の論点は明確だ。従来、座談はその〝なあなあ主義〟が批判され、「ええ、そうですねえ」のような台詞にあらわれたコンセンサス指向のため、西洋的な

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  • 『物語岩波書店百年史2 「教育」の時代』佐藤 卓己(岩波書店) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋ウェブストアで購入 「岩波文化の実像と虚像をたっぷりと描く」 書336頁(第8章「午後四時の教養主義」)に岩波書店主催の文化講演会についてふれられている。1958年6月後半に新潟市・両津市などで開催された、とされている。実はこのとき(6月22日)、会場両津中学校でこの講演を聞いていた1人がわたしである。高校2年生だった。岩波新書で知っていた清水幾太郎の姿をこの目で見、肉声に接したいと参加した。 大学2年生までは、文庫といえば、岩波文庫、新書と言えば岩波新書、総合雑誌といえば『世界』という岩波ボーイだった。1960年代あたりまでに学生生活を送った人には、岩波書店をめぐるそんな思い出がそれぞれにあるだろう。書はそんな在りし日の思い出を振り返りながら読め、若い世代には、近代日の知的文化の歩みをその象徴である岩波文化の実像と虚像から知ることができる格好な書である。 書の内容に入ろ

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  • 『存在と時間(一)』ハイデガー著 熊野純彦訳(岩波書店) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋ウェブストアで購入 「4つのハイデガー体験」 四分冊で刊行中の新訳『存在と時間』。いよいよ完結が間近に迫った。こういうお偉いは自分には縁がないと思っている人もいるかもしれないが、この熊野純彦氏による新訳にはいろいろ趣向が凝らされており、必ずしも「つ、ついにオレは…ハイデガーを読むぞ!」というような悲壮な覚悟がなくとも手に取ることができる。ぶらっと店内をのぞきこむようにして立ち寄ることのできる希有な版なのである。 その仕掛けはこうだ。全体はおおまかに言うと、四層からなっている。「梗概」「文」「注解」「訳注」の四つである。このうち、ほんとうにハイデガーがしゃべっているのは「文」だけ。「梗概」は訳者が文に先立って示す「あらすじ」であり、「注解」では、文を追いかけるようにして訳者が内容を再確認している。ただし、後者では原語を併記しつつ解説が加えられるので、翻訳や解釈の舞台裏に足

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  • 『Sの継承』堂場 瞬一(中央公論新社) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

  • 『反逆する華族 「消えた歴史」を掘り起こす』浅見雅男(平凡社) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋ウェブストアで購入 「”赤化華族”とは何だったのか」 著者は、すでに戦前の華族について何冊もを書いており、私もその一冊はかつてある新聞で取り上げたことがあるが、書(浅見雅男著『反逆する華族―「消えた昭和史」を掘り起こす』平凡社新書、2013年)は、「赤化華族」に的を絞り、皇室の「藩屏」といわれた彼らがなぜ戦前には非合法だった共産党の運動に身を投じたかを再考し、「消えた昭和史」を掘り起こそうとする興味深い試みである。 書に登場するのは、石田栄一郎(男爵家の長男)、大河内信威(子爵家の長男)、学習院グループ、岩倉靖子(公爵家の三女)などだが、現代の若者には、当時ふつうの人たちよりははるかに恵まれた境遇に育った彼らがなぜ共産党の活動に身を投じたのか、理解に苦しむに違いない。しかし、まさに恵まれた境遇に生まれたからこそ、あるいは、著者の言葉を借りれば、「自分ではどうしようもない『出

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  • 『日本の起源』東島誠・與那覇潤(太田出版) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋ウェブストアで購入 「「変わらない、変われない日」のための歴史的思考力」 日史は、「わたしたちの歴史」だから、かえってややこしい。巷に「歴史好き」はけっこういても、「日人」であることに誇りが持てる「歴史」だから好き、という人が多いと思う。一方、自分たちのありかたを揺さぶるような「歴史」は忌避されがちだ。それどころか、その手のことを言うと、国を貶めるためだと誤解する人がいる。しかし当は、この国をよくするためにこそ、今ある日はなぜこうなったのかを問わねばならない。そのために、歴史に学ぶことは「役に立つ」。無味乾燥な歴史の教科書とも、ストーリーに流れる小説や映像の世界とも離れたところで、たしかな歴史学の知見が積み重ねられていることを、わたしたちはあまりに知らない。気鋭の学者が、今ある日の「起源」をたずねて、歴史学の最新の成果を惜しげもなく披露してくれる書『日の起源』は、

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  • 『歴史をかえた誤訳』鳥飼玖美子(新潮文庫) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋ウェブストアで購入 「一語の誤訳が世界を変える!」 「もしたった一語の日語を英訳する仕方が違っていたら、広島と長崎に原爆が投下されることはなかったかもしれない」 歴史に「〜たら」や「〜れば」は禁句だと言われるが、この一文の持つ重みと恐ろしさは、想像を絶するものがある。数十万人の命を奪い、過去、現在、未来において人々を苦しめている原爆が「たった一語」の英訳のせいで落とされたのならば。 鳥飼玖美子の『歴史を変えた誤訳』では、興味深いどころか、恐ろしい「誤訳」の例が豊富に紹介されている。前記の例で言うと、これは当時の鈴木貫太郎首相のポツダム宣言に対する発言のことだ。鈴木は「静観したい」と考えていたようだが、戦争を完遂する雰囲気の元、もっと強い言葉が必要だった。それで「黙殺」を使った。これを日側が「ignore」と訳し、連合国側がそれを「reject」と解釈したらしい。 もちろん、こ

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  • 『青鞜の冒険 ―女が集まって雑誌をつくるということ―』森まゆみ(平凡社) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋ウェブストアで購入 「東京郷区駒込林町九番地」、現在の文京区千駄木五丁目三番地十一で、女性たちの手による雑誌『青鞜』が発刊されたのが明治四十四年。その七十三年後の昭和五十九年、著者の森まゆみと、山崎範子、仰木ひろみの三人が、地域雑誌『谷根千』をたちあげたのは、その千駄木五丁目から歩いて五分とかからないマンションの一室でのことだった。 『谷根千』で「青鞜」を特集したさい、〝「青鞜社」発祥の地〝の史跡板のあるその地にあらためて立った著者。「そのとき、女性解放運動家として数々の役職についた平塚らいてうでなく、二十五歳の若い女性平塚明[はる]の姿が路上にふっと現われたような気がした。『青鞜』発刊は、『谷根千』とおなじく無謀な話であり、それは冒険といってよかった」。 森まゆみ『小さな雑誌で町づくり―『谷根千』の冒険』(晶文社、1991、のち『『谷根千』の冒険』としてちくま文庫、2002)

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  • 『<small>哲学の歴史 別巻</small> 哲学と哲学史』 中央公論新社編集部編 (中央公論新社) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋ウェブストアで購入 日哲学界の総力をあげて編纂された『哲学の歴史』の別巻である。 10ページにわたる全12巻の総目次と170ページにわたる総索引、40ページにわたる1700年以降の総年表(18世紀をあつった第6巻以降は言語圏別の編集になるため、各巻の年表も言語圏別になっていた)が中心となる内容だが、哲学史をめぐる論考や鼎談、インタビューがあり、さらに19編の「追補コラム集」と執筆者とゲスト151名に対しておこなった感銘を受けたのアンケートがおさめられている。 前半の哲学史関係の部分は玉石混淆である。 巻頭の小林道夫「哲学史研究の意義と今後の課題」は京大哲学科の想い出を長々と語った後、科学技術至上主義に陥らないためには哲学史が必要と説き、最後にクワインの哲学史不要論を批判し、「人間活動の多元性」を把握できるのは哲学だけだと結んでいる。 この文章に限らず京都大学哲学科の回顧談がや

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  • 『「坂本龍馬」の誕生 船中八策と坂崎柴瀾』千野文哉(人文書院) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋ウェブストアで購入 「龍馬「船中八策」の謎に挑む」 坂龍馬は幕末維新史のなかで最も人気の高い人物のひとりと言ってもよいだろう。司馬遼太郎の歴史小説『竜馬がゆく』(1963-66年)が龍馬人気の定着に大きく貢献したことも今日では周知の事実だが、書(千野文哉『「坂龍馬」の誕生』人文書院、2013年)は、龍馬の名前とともに語られる「船中八策」がどのように形成されてきたか、利用できる限りの資料を渉猟して解明しようとした話題作である。 NHK大河ドラマ『龍馬伝』(2010年)の冒頭に土佐の新聞記者、坂崎柴瀾という人物が登場したが、柴瀾は書でも鍵となる役割を演じる。どういう意味かといえば、「船中八策」として知られる文書を坂龍馬作として世の中に紹介し、それを普及させたのが他ならぬ柴瀾の作品「汗血千里の駒」であったからだ。論証のプロセスはかなり複雑なので、詳細は書を読んでもらうしかな

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  • 『憤死』綿矢りさ(河出書房新社) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋ウェブストアで購入 「手首をつかむ」 書巻頭の「おとな」は、四〇〇字詰め原稿用紙にして4枚足らずのごく短い作品である。この書評欄にまるごと引用するのも可能なほどの掌編。でも、実にパンチが効いている。これを立ち読みした人は、思わずを購入するのではないだろうか。 語りは幼い頃の夢の話から始まる。「何だあ、子供の夢かあ」と思う人もいるかもしれない。何となく展開が読めそうな気がする。きっと、少しだけ不思議で、少しだけ不安になるような、ほどほどに幻想的な、でも感傷的な余韻に満ちた終わり方をするんだろう、などと。実際、冒頭部では、幼い頃は「年月が過ぎてもいつまでも色あせず忘れられない夢があり、思い出と呼ばれる現実の過去と、ほとんど同じ量が頭にストックされている」というような一節があって、その後も、弟が寝る前にぐずったとか、自分が同じマンションに住む夫婦に預けられたといった、何となくもよも

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