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イサク @bER2YpZXY3TapXc 日本人学生がスイス人女性に、激しい口調で「なぜ?秀吉はあんなにも厳しくキリシタンを弾圧したのか?」と訊かれたそうです。学生はその激しい口調に驚きながら、努めて冷静にこう答えた。「秀吉がキリシタンを弾圧したのは三つの理由があります。 1、イエズス会の宣教師たちが、日本の女や子供を 2023-01-05 19:18:45 イサク @bER2YpZXY3TapXc 奴隷として他国に売り飛ばしたから。 2、キリシタン大名たちが、領土をバチカンに差し出そうとしていたから。 3、宣教師がキリシタンたちに命じて、神社やお寺を破壊しようとしていたから。 スイス人女性は何も言えなくなった。。秀吉は、ただ国や国民を護ろうとしただけですから、当然です。果たして 2023-01-05 19:18:45
豊臣秀吉や養子の秀次の言動などを、そばで仕えた武将が記した「駒井日記」の自筆原本の一部が見つかり、調査にあたった専門家は「当時の武将の日記の原本が出てくることはほとんどなく、重要文化財クラスの価値がある」と指摘しています。 江戸時代の写しが数巻分残されているだけで原本は失われていると考えられていましたが、東京大学史料編纂所がその一部とみられる日記をインターネットオークションで購入し、内容などを調べた結果、写しがある部分の自筆の原本そのものと判断されました。 調査にあたった村井祐樹准教授によりますと、見つかったのは17巻以上あるとされる日記のうち第6巻の7割程度に相当し、西暦1594年にあたる文禄3年2月の出来事が記されています。 このうち22日には、秀吉の天下統一を支えた黒田官兵衛が体調を崩した際に、秀次が出した見舞いの手紙の内容が記されているほか、27日には秀吉と秀次が今の奈良県の吉野で
戦国時代、豊臣秀吉が織田信長に仕えていた時期に、合戦に早く駆けつけた自分の家臣に対し、褒美を受け取るよう伝えた書状が静岡県内の一般の住宅に保管されていたことが、東京大学史料編纂所の研究者によって確認されました。信長の家臣だった時期の秀吉の動向が分かる書状が発見されるのは珍しく、持ち主が書状の写真をSNSに投稿したことをきっかけに、解読が進んだということです。 この書状は静岡県在住の宮田岳さんが、豊臣秀吉に仕えたと伝わる先祖のものとして実家で保管していたもので、書状の写真をことし6月、SNSに投稿して広く解読を求めました。 これが、戦国時代の史料の収集と分析が専門で、東京大学史料編纂所の村井祐樹准教授の目にとまり、宮田さんと連絡をとって実物の解読が行われました。 その結果、署名にあたる花押が秀吉のものであることや、紙の質や筆跡の特徴などから、秀吉が側近に書かせた書状だと確認されたということで
鹿児島市にある県歴史・美術センター「黎明館」に預けられた島津家一族の資料の中から、豊臣秀吉が妻の北政所に宛てて書いた自筆の書状が見つかりました。 書状は、朝鮮半島に兵を出した文禄・慶長の役の際に、秀吉が城を築いた現在の佐賀県の名護屋から北政所に宛てて書かれたものです。 天正20年(1592年)6月3日に書かれたと推定されています。 手紙には、「当年中には唐国、明を取り唐国に遷ったら迎えを遣わせる」と書かれ、文末には「まんどころ殿太閤」と記されています。 東京大学史料編纂所の協力を得て、筆跡などの研究を進め、秀吉の自筆の書状だと確認したということです。 この書状は5月31日から「黎明館」で開かれる企画展で展示されます。
豊臣秀吉が、養子の秀次が切腹する3か月ほど前に、その息子を要職に就かせると発言していたことを示す書状が新たに見つかりました。秀吉は、実子の秀頼が生まれたことで秀次と不仲になったというのが通説ですが、調査にあたった専門家は「秀吉が簡単に秀次一家を潰そうとしていなかったことを示す意味のある発見だ」と指摘しています。 その結果、文禄4年(1595年)に豊臣秀吉の側近、木下吉隆が毛利輝元に送った書状と判断され、この中に、豊臣秀次の息子を今の奈良県にあたる大和の国主にするという秀吉の発言が記されていたということです。 秀次は、跡継ぎのいなかった秀吉の養子になったあと、関白の職についていましたが、この書状が書かれた3か月ほどあとに謹慎させられ切腹し、妻や子どもも処刑されました。 村井准教授によりますと、秀吉と秀次は、この2年前に秀吉の実子、秀頼が生まれたことをきっかけに不仲になったというのが通説ですが
戦国時代で最も優れた戦術家は誰か。東京大学史料編纂所教授の本郷和人さんは「それは毛利元就だろう。元就は圧倒的に兵力差のある戦闘にも勝ち続けた。一方、天下統一を果たした徳川家康にはそうした華々しい戦績はなく、戦術面では平凡な武将だった」という――。(第2回) 【画像】本郷和人『徳川家康という人』(河出新書) ※本稿は、本郷和人『徳川家康という人』(河出新書)の一部を再編集したものです。 ■2度と博打的な戦をしなかった織田信長 基本的に戦いは、兵力が多いほうが勝つ。この原則を踏まえた上で、優秀な兵器をそろえて、そしてしっかりとご飯を食べさせる。そうして戦っていくわけです。 だから戦国大名たちも富国強兵を進めて領民を増やし、商業を振興した。そうして兵を増やし、金を儲けて優秀な武器を購入する。またしっかりと食糧を整えて戦いにのぞむ。そうしたことができる人が優秀な戦国大名であって、三国志の諸葛孔明(
行軍する兵士たちの消費エネルギーから排泄物の量まで計算して「中国大返し」の難易度を検証した『日本史サイエンス』が、日本史ファンの間で話題を呼んでいる。「科学的」に導かれたのは、「中国大返しを実現させた豊臣秀吉は、本能寺の変が起こると事前に知っていた」という意外な結論だった。はたして、秀吉は明智光秀の裏切りを察知していたのだろうか? 「本能寺の変」研究のトップランナーである三重大学の藤田達生教授が、この結論を徹底検証した。 実際の行程を推定してみる 本能寺の変のあと、秀吉が光秀を倒して信長の後継者として認知され、天下の趨勢を決したのが「中国大返し」だった。それは、秀吉が中国地方の毛利氏攻略のため布陣していた備中高松城(岡山県岡山市)から、光秀との決戦の場となった山崎(京都府大山崎町)までの常識を超えた高速の行軍だったとされている。
日本にキリスト教が伝わったのは、戦国乱世まっただ中の天文18年(1549年)に薩摩、今の鹿児島・祇園之洲に上陸したイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルによってであった。 このザビエルからバトンを受け継ぐように永禄6年(1563年)、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが来日すると、ときの権力者の織田信長から布教活動を許されたこともあって、京都や西九州中心にキリシタンが急増した。信長が本能寺で斃れた天正10年(1582年)ごろには全国で約15万人の信者がいたと言われている。 この数字は当時の京都の全人口のほぼ半数に匹敵するものだった。その後、信長の後継者となった豊臣秀吉は最初こそ信長のキリシタン保護政策を踏襲したが、天正15年になり、突然手のひらを返すかのように「伴天連(ばてれん)追放令」を発する。伴天連とはポルトガル語で宣教師を意味するパードレが訛ったものだという。 秀吉にはこのとき、布教
織田信長、豊臣秀吉、それに徳川秀忠が、京都の警察業務を担当していた組織に対して権益を認めることなどを記した「朱印状」と呼ばれる書状が3点まとまった形で確認され、調査を行った専門家は「この組織と天下人との関係が総合的に分かり、非常に貴重だ」としています。 室町時代から江戸時代の京都では、4つの家からなる「四座雑色(しざぞうしき)」と呼ばれる組織が、ろう屋の管理や要人の警護などの警察業務を担当していました。 このうち1つの家に伝わったとみられる、およそ80点の文書を東京都内の男性が古美術商から購入し、東京大学史料編纂所が調査しました。 調査を行った村井祐樹准教授によりますと、このうちの3点は、織田信長、豊臣秀吉、それに徳川秀忠の3人の天下人が出した書状の原本と判断されました。 それぞれ後世の写しが残されていますが、立場の上の人が目下の人に出す「朱印状」だったことが新たに分かったということです。
絶世の美女だったというお市の方 目 次 サブブログに書いた「これまでのお話」 小谷城の戦い 染谷翔太さんの織田信長。『麒麟がくる』 【業務連絡です】 数日前、既婚者は腐女子とは言わず、貴腐人と呼ぶと、多少、そのあたりを嗜(たしな)まれている木瓜(id:Boke-Boke)さんに教えていただいたアメリッシュである。 知らなかった・・・ 最近、とても仲のよかったブログの友だち、おふたりがサイトを閉じられ・・・ なんだか、諸行無常の風が吹き、ちょっと寂しい。 その上、新型コロナウイルスで外出しないでって、だから気分も下がり気味を、エイやっと上向きにしてみる。 さあ、今日も笑いながら頑張るYO! さて、時間がね。困ったことに私に断りもなく、かってに過ぎていくことが多くて、なかなか思うようにいかない。 だから、戦国時代にいるアメリッシュとオババは、先週の日曜日からずっと、盾のなかで弓矢を防ぎながら、
NHK大河ドラマでは秀吉が悪く描かれがちな背景は何か? 江戸時代は一番人気…時代で変わる秀吉の評価 「東洋のナポレオン」とも言える功績について八幡氏が論じる NHK大河ドラマでは豊臣秀吉は悪く描かれることが多い。来年の大河は松本潤主演の「どうする家康」で、秀吉役のムロツヨシさんもまた格好の悪役を演じるかもしれないと言ったら失礼になってしまうか。 若い頃の木下藤吉郎はともかく、天下をとってからの秀吉は、野心と好色と我が子である秀頼への溺愛が空回りして、甥の秀次を殺したり、朝鮮出兵という暴挙をした醜い老人扱いというワンパターンだ。 しかし、秀吉ファンとしては、悔しいので、あの世の寧々が、日本経済新聞社から「私の履歴書」の執筆を頼まれたという想定で、『令和太閤記 寧々の戦国日記』(ワニブックス)という評伝を書いてみた(八幡衣代と共著)。小説でないので、嘘は書いてない。あやふやなことは寧々の推測と
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お題「もう一度見たいドラマ」 羽柴秀吉によって、戦国時代の地下牢に囚われた私たち 「アメ、あの小男は誰だ」 私たち三人は横山城にある天然に作られた地下牢に閉じ込められていた。 竹中半兵衛のもとへ、羽柴秀吉の謀反について確認しに行って、そこに、なぜか秀吉本人がいたんだ。 驚いている間も、説明する間もなく、うす汚い泥でできたような牢にぶち込まれた。 暑いし、雨が降ってきて、泥水が牢内の壁から染み出してくるし、この世界の不潔さには慣れたと思っていたけど、さらに1段階上があるとは思わなかった。 「これからどうなるんだ、アメ」 「それは私が知りたいです」 オババと私、それから昭和初期から過去へきた弥助と、未来人3人組は羽柴秀吉が砦とする横山城の牢にいて。これ、もう、信じられない状況で、これからどうしていいか、全くわからない。 弥助は隅に座ったまま無言だったし・・・ と、その時、黒く汚れた壁で、なにか
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日本史は「毒親」であふれてる 子供の人生を奪い、ダメにする「毒親」は、近年、盛んに使われだした言葉ですが、もちろん急に親が「毒化」したわけではありません。 古代から日本史をたどっていくと、実はあっちもこっちも、今でいう「毒親」だらけです。日本の主な争乱は、みな身内の争いだったといっても過言ではありません。とはいえ権力者の毒親ぶりは、一般のそれと比べると、あまりにスケールが大きく、また、それに負けない「毒子」も登場します。 今回ご紹介する、秀吉もまさにそんな最強の「毒子」といえます。 皆さんはシェイクスピアの『リア王』をご存知でしょうか。実はこのリア王ほど、あからさまな毒親はいません。まさに毒親の典型例で、秀吉の残酷な行為を考える上で、大きなヒントとなりますので、まずはこちらのあらすじをご紹介しましょう。 ブリテン王であるリア王は、老いたために、3人の娘に領土を分けることにしました。その際、
中国・日本で数多くの淫行を行ったポルトガル商人 一五八三年のこと、ポルトガル船がマカオを出発しインドへ向かったが、マラッカに近いジョホール沖で座礁した。 この報告を耳にした宣教師のコウトは、ポルトガル商人が日本や中国で行った放逸な行為に原因があると考え、それゆえに神罰が下ったと手厳しく評価した。ポルトガル商人が行った「放逸な行為」は、次のように記述されている(岡本良知『改訂増補 十六世紀日欧交通史の研究』引用史料より)。 神はポルトガル商人らが神を恐れることなく、色白く美しき捕らわれの少女らを伴い、多年その妻のように船室で妾めかけとして同棲した破廉恥な行為を罰したのである。 この明らかな大罪は、神からも明白に大罰を加えられたのであった。それゆえ、彼らに神の厳しい力を恐れさせるため、中国・日本の航海中に多数の物資を積載した船を失わせ、もってこれを知らしめようとしたのだ。 また、中国・日本方面
今週のお題「わたしの自由研究」 こんにちは、いつもお読みくださってありがとうございます。 洗濯機でお布団のシーツに上手く隠れやがったリモコンを洗って、落ち込んでるアメリッシュです。 どうも、リモコン、私に対して、なにか思うところがあるようです。 さて、今日も明智光秀です。 ちと、事情があって、【結婚と毒親、オババシリーズ】書けません。 来週、また再開します。もし、お待ちの方、とっても申し訳ないです。 明智光秀 イケメンだった明智光秀 明智光秀は非常に頭脳明晰な男であったと、信頼できる史料に残っています。 信長には古くから子飼いの家臣も多くいましたが、彼ら以上に重用したのが 羽柴秀吉と明智光秀でした。 いわば外様のなかのツートップ。その一人が光秀でありました。そして、ここが重要な点なですが、実は頭一つ光秀が抜けていたんです。 皮肉なことに天下を手中に入れたのは、光秀ではなく、秀吉でしたが。
「エイドステーションと言うんですね! まさにそれですよ! 今度から私も使わせてもらいます」 オンラインでつないだ画面越しで興奮気味にこう話すのは、奈良大学教授で城郭考古学を専門とする千田嘉博氏だ。 千田教授は、緊急事態宣言が発令された翌4月8日に、NHK-BSプレミアムで放送された番組「英雄たちの選択」の中で、“戦国の奇跡”と呼ばれる豊臣秀吉の「中国大返し」について、ある新説を唱えていた。 番組のHPにはこう書かれている。 <備中高松城から姫路城まで100キロにおよぶ行程を大軍が驚異的な速度で取って返した。いかにして秀吉は不可能を可能にしたのか?(中略)“幻の大返しシステム”の存在が、浮かび上がってきた> そのシステムとはどんなものか? それを理解するキーワードが、ウルトラマラソンやトレイルランニングの世界ではおなじみの「エイドステーション」なのだ。そして、その言葉を筆者が伝えたときに、今
(前回のあらすじ:1573年夏、戦国時代に転生した姑オババと歴女アメリッシュ。アバターとなった戦国時代の母娘カネとマチを生かすため兵隊になる決意をした。明智光秀の配下で足軽小頭である古川久兵衛の下で働く。彼と共に信長に会い朝倉義景を追撃したのち、羽柴秀吉が信長への謀反の嫌疑で投獄される) 1573年晩夏、織田軍の砦 朝倉義景を滅ぼした織田軍は小谷城に戻った。 私の知っている歴史では、明日8月27日、夜陰にまぎれて浅井長政の本拠地、小谷城を秀吉が3000人の手勢だけで攻める。 それが、正史。 もうね、歴史で習ったように、動いて欲しいから。 秀吉が捕えられたって、それ何? 1573年の秀吉は、明晩に大金星をあげるはずなんだ。難攻不落の小谷城を急襲、浅井長政を自害させるのが実際の歴史だったから。 もうね、私、慌てたね。 まさか、私とオババが本来の戦国生まれの女たちの人生を狂わせたために、秀吉が捕
甘く熟した「紅はるか」を使用したミニカップ「甘熟 紅はるか」。 今までさつまいも物って、安納芋が多かったのだけれど、 安納芋って、べちゃべチャしすぎてて好きじゃない。 甘いさつまいもは美味しいけれど、甘ければいいと言うものじゃない。 さつまいもは鳴門金時が好き。 それと、さつまいも味って微妙なものが多い。 変な香料が入ってると言うか…。 さつまいもの嫌なところが増幅された匂いになってる事が多い。 でも買っちゃうのよねー。 「新作」「限定」と言う言葉に弱いわたし。 アイスクリームの中央にソースを溜める 「たまりソース構造」により、 紅はるかの豊かな風味や食感の変化を楽しめるよう工夫。 追熟した紅はるかを焼くことで、 さらに甘さを引き出したペーストを使用している。 少量加えた塩と加工黒糖が、 より一層紅はるかの味わいと風味を引き立てる、のだそう。 とりあえずいただきまーす。 えー!驚きの美味し
「通説」を「科学」の視点からくつがえして大反響を呼んだ『日本史サイエンス』は、このほど第二弾が刊行され、たちまち重版が決まるなど話題となっている。著者の播田安弘氏が試みる「数字」で歴史を読む手法は、専門家もその意義を認めるところで、なかでも織豊期研究の第一人者・藤田達生氏(三重大学教授)は、同書(第一作)で展開された「中国大返し」についての大胆な仮説におおいに共感し、ここに掲げる論考を執筆した。旧暦では本能寺の変から440年目にあたるきょう、改めて公開する。 藤田氏自身、最新著『戦国日本の軍事革命』では信長・秀吉らの天下統一を火器と兵站システムに注目して読み解く新視点を展開しており、いま、戦国時代研究は新しいフェーズに入った! 実際の行程を推定してみる 本能寺の変のあと、秀吉が光秀を倒して信長の後継者として認知され、天下の趨勢を決したのが「中国大返し」だった。それは、秀吉が中国地方の毛利氏
福岡県嘉麻市「益富城」城跡 福岡県嘉麻市にある「益富城」城跡に行きました。ここは1430年頃の室町時代に大きな勢力を保持した守護大名、大内盛見(もりはる)によって築城されたそうです。 戦国時代末期には、当時北部九州で勢力を誇っていた、朝倉の秋月氏の持城でしたが、豊臣秀吉の九州遠征によって攻城戦が行われた場として歴史で語られています。 かなりの大規模な城郭だったことが、最近分かったそうです。 城跡を歩いていると、その広大さに驚きました。はたして豊臣秀吉は難攻不落のこのお城をどう攻めたのでしょうか? 福岡県嘉麻市「益富城」城跡 筑豊が好きシリーズ第46弾 一夜城伝説 全部で3つある豊臣秀吉の一夜城伝説 華文刺縫陣羽織(かもんさしぬいじんばおり) 織田信忠の一夜城伝説というのもあるようです。 筑豊が好きシリーズ第46弾 福岡県の筑豊地方が今とても面白いと思う今日この頃です。 今回ご紹介する嘉麻市
東京・銀座の“ある場所”に大変貴重なお宝が保管されています。実はそのお宝は、豊臣秀吉が愛したといわれる貴重な「黄金の茶道具」です。 そして、この「黄金の茶道具」がオークションに出品されることが明らかになりました。落札予想額は、なんと3億円だといいます。 ■藤堂高虎の子孫 “諸般の事情”から出品 目の前で、まばゆい光を放つ黄金の茶道具一式。見るものを魅了する圧倒的な存在感。一方で、細かく施された細工からは気品が漂っています。 SHINWA WISE HOLDINGS 倉田陽一郎社長:「(Q.目の前にある黄金の品は、何なのでしょうか?)これはですね、豊臣秀吉が、藤堂高虎に褒美として渡した金の茶釜のセット」 津藩の初代藩主・藤堂高虎。江戸城修築の際、天守閣を設計するなど、築城の名手として知られた戦国武将です。 倉田社長:「5月27日に開催されるオークションで、これがオークションにかかる」 今回、
安土桃山時代末期の天正18(1590)年、豊臣秀吉が関東の有力戦国大名・北条氏を滅ぼしたいわゆる「小田原征伐」の直後、秀吉が室町幕府将軍家の分家に当たる「関東足利氏」に送った書状が見つかった。北条氏亡き後、秀吉は東海地方で勢力を誇っていた徳川家康を関東に移封させたが、一方で分断状態にあった関東足利氏の統合に動いていた。室町幕府はすでになくなっていたが、家康を牽制(けんせい)するため「かつての権威」である足利氏を利用しようという意図があったことを示す、貴重な証拠といえそうだ。(橋本昌宗) かつての名家が“没落” 書状を展示している神奈川県立歴史博物館(横浜市中区)によると、書状は「豊臣秀吉朱印状(しゅいんじょう)」と呼ばれるもの。日付は天正18年7月17日で、秀吉から関東足利氏の末裔、足利頼淳(よりあつ、頼純=よりずみ=とも)に送られたものとされる。これまで書状の存在自体は知られていたが、現
本能寺の変のあと、羽柴秀吉、のちの豊臣秀吉が、織田信長を弔う寺を建てるために大量の資金を調達していたことを示す古文書が、東京大学史料編纂所の調査で新たに確認されました。研究者は「秀吉が大量の資金を集め、信長亡きあとの権力争いを有利に進めようとしていたことがうかがえる貴重な史料だ」と指摘しています。 古文書は松山市が40年余り前に購入して保管していたもので、東京大学史料編纂所の村井祐樹准教授の調査で秀吉の資金調達やその使いみちについて書かれたものだと確認されました。 文書は本能寺の変の3か月後に記されたとみられ、秀吉が、提供を受けた銀1000枚について、信長を弔う菩提寺の建立に使うことを伝えています。 村井准教授によりますと、相手は有力な商人と推測され、銀1000枚は現在の金額にして数億円にあたるということです。これまで秀吉が信長の菩提寺の建立の資金などをどのように捻出したのかはよく分かって
NHKの大河ドラマ『麒麟がくる』が、とうとうクライマックス「本能寺の変」を迎える。昨年発売され大ヒットした『日本史サイエンス』は、豊臣秀吉の「中国大返し」の難易度を科学的に検討し、「秀吉は本能寺の変を事前に察知していた」という結論を導いた。意外なことに、歴史学の研究成果もこの科学的な主張を支持している。「本能寺の変」研究の第一人者である藤田達生氏がこの説を徹底検証した、2020年10月25日の記事を再掲する。 実際の行程を推定してみる 本能寺の変のあと、秀吉が光秀を倒して信長の後継者として認知され、天下の趨勢を決したのが「中国大返し」だった。それは、秀吉が中国地方の毛利氏攻略のため布陣していた備中高松城(岡山県岡山市)から、光秀との決戦の場となった山崎(京都府大山崎町)までの常識を超えた高速の行軍だったとされている。
第三節 戦前・戦後の豊臣秀吉像 矢田挿雲の『太閤記』 欧州諸国に甚大な被害をもたらした第一次世界大戦後、世界的に反戦感情が広がっていく。大正十年(一九二一)七月三十日の朝日新聞夕刊に掲載された「今日の問題」は、シベリア出兵を批判する中で朝鮮出兵に言及している。すなわち「国論の後援を待たずして日本が出兵し、しかして失敗したのは、豊太閤の三韓出兵と今後のシベリア出兵とである」と説く。世界的な軍縮の流れの中、豊臣秀吉の朝鮮出兵を礼賛する風潮は衰えていく。 豊臣秀吉は人気者であったので、明治以来、講談や芝居はもとより、秀吉を主人公とした小説も少なからず発表された。だが、『太閤記』を大衆文学として完成させたのは、矢田やだ挿雲そううんの『太閤記』であると言われている。 矢田挿雲の『太閤記』は、「報知新聞」の夕刊に大正十四年(一九二五)から昭和九年(一九三四)までの長期にわたって連載された豊臣秀吉の一代
これは日本史上の難問題。秀吉はいったいなにを考えて朝鮮まで出兵したのでしょうか。 昔から言われてきた説として、まずあげられるのが名誉欲。日本のすべてを手に入れてしまった秀吉は、言ってしまえば「思い上がっていた」。権力を手にした秀吉が、それに酔ってしまい、日本を征服した自分の力をもってすれば中国でも支配できると考えた。そして実際に大陸を目指す。 もともと、朝鮮を自分のものにしようと考えていたわけではありません。本来の目的は中国大陸です。中国を手に入れて天皇を移すと、そこまで考えていたのですね。もはや妄想に近いような構想ですが、それくらい思い上がっていた、という解釈です。 そしてもう1つ、これも昔からよく言われる説として「土地が足りなくなっていた」というもの。日本全国を攻め取ってしまった結果、家来たちに配分する土地がなくなった秀吉は、家来たちの期待に応えるために、新しい土地の獲得を目指したとい
羽柴秀吉による1581年の鳥取城兵糧攻めで落城後、助け出された人々がかゆを食べた直後に亡くなったのは、急激な栄養投与で重篤な合併症を引き起こす「リフィーディング症候群」が原因だったー。そんな論文を東京都立多摩総合医療センターの鹿野泰寛医師と、鳥取県立博物館の山本隆一朗学芸員らがまとめた。日本最古のリフィーディング症候群の事例としている。 鳥取城の兵糧攻めは「鳥取城渇(かつ)え殺し」とも言われ、期間は3カ月以上にわたり、多くの餓死者が出たとされる。籠城した城主の吉川経家が、城兵らの命と引き換えに切腹して籠城戦は終わり、開城された。 論文は、織田信長の家臣だった太田牛一が信長の生涯をまとめた「信長公記」と、秀吉に仕えた竹中重門が著した秀吉の一代記「豊鑑(とよかがみ)」に着目。二つの古文書には落城後、飢餓状態にあった人々に秀吉がかゆを振る舞ったところ、大量に食べた人が急死し、少しずつ食べた人は生
出たばかりの本だが、ネットで高評価が並んでいる。『日本史サイエンス』(講談社ブルーバックス)。日本史にはさまざまな謎があるが、「蒙古襲来、秀吉の大返し、戦艦大和」の真相について科学の目で迫り、実はこうだったのではないかと解き明かしている。理系のブルーバックスだが、歴史ファンにとっても見逃せない一冊だ。 船に関わり続ける 「蒙古襲来」は「元寇」とも呼ばれ、1回目は1274年の「文永の役」、二回目は1281年の「弘安の役」として知られる。かつては、「神風」が吹いて、蒙古軍が撤退したといわれていた。戦前の日本では、最後は「神風」が吹く先例として語られ、国民を鼓舞する材料になっていた。 本当に「神風」が吹いたのか――。近年、歴史家の間でも検証が続いている。BOOKウォッチで紹介済みの『蒙古襲来と神風』(中公新書)も定説に疑問を提起、そもそも文永の襲来では嵐が来ていないこと、弘安の襲来ではたしかに嵐
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