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著・新井孝重 (ミネルヴァ書房) 詳しく知りたかった。 だけど、詳しく知りたく、なかった。 頭の片隅で長いあいだ気にしていた。 だけど、深入りしたく、なかった。 護良親王(もりよししんのう)について。 だって、最期は悲劇ということは、知っていたから! 深入りしたら、心が痛む! だけど。 この本を書店で手に取ってしまった。 帯のキャッチコピー、「鎌倉討幕に駆けた28年の数奇な人生」という言葉に、胸を打ち抜かれてしまった。 若くして亡くなったことは知っていたけど、28歳だったのか! 「駆けた」という表現が良い! 読まなければならない、読もう、悲しもう!と。 覚悟(?)を、決めましたの…。 護良親王という名前・人物。知らない人のほうが多いだろうか。 だけど、後醍醐天皇と足利尊氏なら、知っているだろうか。 後醍醐天皇の皇子です。この情報だけでもう、波乱の気配? 足利尊氏と敵対しました。この情報
取手二、常総学院を率い、春夏通算3度の甲子園制覇を果たした木内幸男(きうち・ゆきお)氏が24日、肺がんのため茨城・取手市の病院で死去した。89歳だった。11年夏の大会を最後に常総学院の監督を勇退。その後は同校を陰からサポートしていた。“木内マジック”としてファンに愛された用兵の一端を加藤弘士デスクがつづり、故人を悼んだ。 高校野球の監督にとって、一番大事なことは何ですか。そんな私の問いに、木内さんは語気を強めてこう言った。 「子供たちをいかにその気にさせられるか。それに尽きるんですよ」 2年生のKKコンビを擁するPL学園を撃破し、茨城県に初の優勝旗をもたらした84年夏もそうだった。全国制覇から2か月前、取手二はボイコット騒動に揺れていた。 春の関東大会で初戦サヨナラ負けを喫したナインに、木内さんは「1週間練習しなくていい。頭冷やせ」と命じた。ほとんどがツッパリ男子たち。放課後は映画を見に行
偉い人がいたものである。江戸時代、文政年間から大正元年まで生きた医師・関寛斎。あまり有名とはいえないが、その人生はすごいの一言だ。 上総の農家に生まれ、儒家に養子として入り、世の中の役にたちたいと、蘭方医学の塾兼診療所であった佐倉順天堂に学ぶ。とりわけ貧しい塾生であったが極めて優秀で、塾の創始者・佐藤泰然の弟子として、手術などの記録を「順天堂外科実験」に残している。 泰然の推挙により、濱口儀兵衛商店(後のヤマサ醤油)当主・濱口梧陵に請われて銚子で医院を開業する。さらに、濱口の援助を受け、長崎でオランダ人医師・ポンペに学ぶ。そして一旦銚子へ戻るも、徳島藩に請われて典医となる。 典医のうちただ一人の蘭方医とし相当に苦労したが、藩主・蜂須賀斉裕の信頼は厚かった。その藩主を看取った直後、戊辰戦争に官軍側で従軍する。奥羽出張病院頭取として、病院運営に苦労しながらも、敵味方なく治療にあたった。望めば新
ザ・ドリフターズのメンバーでタレントの仲本工事さん(本名・仲本興喜=なかもと・こうき)が急性硬膜下血腫のため亡くなったことが19日、分かった。所属事務所が発表した。81歳だった。 仲本工事さんはは生前、流れに逆らわない生き方を貫く「受け身」の天才であった。 青春時代は都大会で入賞経験もある、将来を期待された体操選手だったが、進学した学習院大に体操部がなかったことで、アスリートの道をあっさりあきらめ音楽の道へ進んだ。友人に誘われて訪れたジャズ喫茶のボーカルで才能を発揮。音楽を極めるつもりで加入した「ザ・ドリフターズ」はいつしかコント集団となったが、それでも「縁の下の力持ち」という持ち味を発揮し、新境地を切り開いた。 やりたいことができなくなったときに人生の本質を味わうことができる。学生時代に断念した体操は、TBS系バラエティー番組「8時だョ!全員集合」の体操コントとして昇華された。「全員集合
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印刷 メール <評伝>花札からTVゲームへ 「私は娯楽屋」 任天堂前社長・山内溥さん死去紙面で読む 山内さんと任天堂の歴史 世界的なゲーム機メーカーと米大リーグの人気チーム。山内溥(ひろし)さんほど世代や国を超えて幅広い大衆を相手にしていた経営者はいないだろう。「私は娯楽屋」という口癖の通り、面白さを提供し続けた人生だった。▼1面参照 2代目経営者の祖父が病で倒れ、早稲田大を中退して家業の花札・かるた店を継い… 続きを読む最新トップニュース この記事の続きをお読みいただくには、会員登録が必要です。 登録申し込みログインする(会員の方)無料会員登録はこちら 朝日新聞デジタルのサービスご紹介はこちら ※有料記事の一部を自動で取り出して紹介しています。 朝日新聞デジタルトップ PR情報 検索フォーム 山内溥 任天堂 鵜之澤伸 ゲームボーイ ニンテンドーDS おすすめ リストバンド型?スティック型
人間国宝の落語家・柳家小三治(やなぎや・こさんじ、本名・郡山剛蔵=こおりやま・たけぞう)さんが7日に心不全のため都内の自宅で亡くなったことが10日、分かった。81歳。故人の遺志でこの日、近親者と直弟子ら約20人で密葬を済ませた。喪主は長男の郡山尋嗣(こおりやま・ひろつぐ)氏。お別れ会の予定はないという。小三治さんは5代目・柳家小さんさんに入門。早くから頭角を現し、柳派の正統派として話芸を極めた。 小三治さんが人間国宝たるゆえんは、その卓越した空間掌握能力である。出ばやしが鳴った瞬間から、客席の空気は小三治さんのものになる。こざっぱりとした風貌(ふうぼう)で現れ、座布団に静かに座り、傍らに置かれた湯飲みでお茶をすすりながら、どこかぶっきらぼうにまくらを話す。観客はいつしか、小三治さんの世界に吸い込まれていく。 タレント業に進出する落語家も多い中、小三治さんの軸は常に寄席で落語を披露することに
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初版年月日 2024年3月10日 書店発売日 2024年3月11日 登録日 2024年1月9日 最終更新日 2024年3月8日 紹介 丸山眞男――戦後日本における最大の思想家とされながら、果たして彼の思想は正しく理解されてきたのだろうか。近代主義者とされる丸山は、実は現実の近代への徹底的批判者であり、精神構造としての天皇制がこの社会に深く根を張っていることに対して最後まで変革を訴え続けた。本書は、従来の国民国家批判やポストモダニズムの立場などからの丸山批判を乗り越え、思想史の原点に立ち返り、その思想を論理的・内在的に読み解いていく。個人と個人の横のつながりによる「開かれた社会」のもとでの普遍的人権を希求していった丸山の思想が現代社会に訴えかけるものとは何か。 目次 はじめに 一 誕生から一高時代まで 二 研究者としての出発 三 軍隊という経験 四 「精神の革命」を求めて―ナショナリズムの追
田中静壱(前列中央)の親族写真。前列の右端の乳児が孫の和田雅子さん。静壱の左の海軍軍人は義弟の西田政雄(たつの市立龍野歴史文化資料館提供) 1945年8月15日。太平洋戦争の終結を告げる玉音放送が正午から流れた。放送を阻止しようと陸軍の青年将校らが反乱を起こしたが、その「宮城事件」を鎮圧したのが陸軍大将・田中静壱(しずいち、1887~1945年)だった。戦後76年を前に、静壱の出身地・兵庫県たつの市の男性が評伝小説を出版した。(直江 純) 【写真】田中静壱陸軍大将 たつの市揖保川町のアマチュア作家・横家伸一さん(71)は自身3冊目の評伝小説「八月十五日終戦秘話・宮城事件 陸軍大将田中静壱伝」(文芸社)を今月出版した。史料がない部分は想像も交えて静壱の生涯を描いた。 静壱の奮闘は、今年1月に亡くなったノンフィクション作家・半藤一利さんの代表作「日本のいちばん長い日」にも登場する。反乱を企てた
室 潔 著 四六判 227ページ 本体:2,200円+税(2022年1月15日発売) ISBN:978-4-657-21021-0 早稲田大学出身のジャーナリスト・政治家、中野正剛(1886-1943)。筋金入りのリベラリストとして知られながら、ヒトラーやナチスに傾倒。その一方で、日本の軍部独裁を厳しく批判し、東条英機内閣の転覆容疑で逮捕された後、割腹自殺を遂げた。 大衆とともにあろうとし続けた稀代の政治家の足跡と、一見矛盾とも見える数々の行動の背景にあった政治理念を、中野自身の著作や緒方竹虎など知人の証言から読み解く。戦前の日本政治史研究に一石を投じる書。 早稲田大学名誉教授。 1940年生まれ。1963年、早稲田大学第一文学部史学科卒業後、同大学大学院文学研究科に学ぶ。1970年~1972年、DAAD奨学生としてドイツ連邦共和国ハイデルベルク大学に留学。1978年、文学博士(早稲田大学
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記事:ミネルヴァ書房 書籍情報はこちら 『ミネルヴァ日本評伝選』は、ミネルヴァ書房創業55周年の特別企画として2003年9月10日より刊行が始まった。今年の9月10日に通巻200巻目の節目を迎え、当初の予想を上回る、月一巻というハイペースで刊行されてきた。 これもひとえに監修の上横手雅敬・芳賀徹両先生をはじめ編集委員の先生方 のお力添えのたまものと、まずは感謝を申し上げたい。 200巻ともなれば『日本評伝選』は、一巻一巻の〈つらなりのなかから、列島の歴史はおのずからその複雑さと奥ゆきの深さをもって浮かび上がってくるはずだ〉と「刊行の趣意」にあるように、シリーズそのものを、わが国の壮大な「歴史絵巻」になぞらえることができるだろう。それは、古代から現代までわが国の、各ジャンルの個性ある主人公がくりひろげる、さながら大河小説の趣をもって展開される歴史ドラマだ。 ある巻では、今まで顧みられることの
平成10年10月、阪神の監督就任会見で握手する野村克也さん。左は久万俊二郎オーナー、右は高田順弘球団社長=大阪市内のホテル 「ワシが阪神の監督に? 何を寝ぼけたことを言うとるんや。夢でも見とんのか」 「ワシが阪神…。ワシが阪神に行ったらワシの野球人生はボロボロになるやろ。関西は怖い」 「阪神はワシに誰を育ててほしいのや?」 平成10年夏。野村克也さんに阪神監督就任を水面下でお願いして1カ月以上が経過していた。最初は取り付く島もない。徐々に言葉のトーンに変化はあったものの、受諾の雰囲気はなかった。 それが劇的に変わったのは、8月23日の夜のこと。当時、ヤクルトの監督だった野村さんは大阪ドーム(現京セラドーム大阪)での阪神戦を終えると一度、大阪駅前の宿舎に帰り、その後、兵庫県芦屋市の村山実氏宅に向かった。前日の22日に逝去したミスタータイガースに最後の別れを告げるためだった。 「人間は死んだら
<1996年に62歳で亡くなった、日本を代表する国際政治学者・高坂正堯。論壇やテレビ、また大平内閣、中曽根内閣時代のブレーンとして活躍し、今もその存在と影響は大きい。話題書を、最も関心を持ったのは「大学教師としての高坂」という教え子、戸部良一が読む> 国際政治学者高坂正堯は、一九三四年五月に生まれ、九六年五月に亡くなった。六二歳になったばかりだった。 私は一九六九年、法学部三年生のとき高坂の国際政治学を受講した。それまで考えたこともない問題を投げかけられ、思いもつかなかった発想と論理を聞かされて、戸惑いながら、彼の話すことに引き込まれていった。でも、高坂ゼミには入らなかった。頭の回転が速くて目端の利く学生が集まるゼミのように見え、気後れした私は、自分には合わないと思ってしまった。 しかし結局、大学院では高坂の指導を受けることになった。ゼミの指導教授の猪木正道が防大校長に転じ、京大を去ったか
ささやまの森公園に設置した「万兎の森」開きの式典で、出席者と記念写真におさまる河合雅雄さん(中央)=2008年3月、兵庫県丹波篠山市川原で 14日に97歳で亡くなった、京都大学名誉教授で世界的に知られる霊長類学者の河合雅雄さん。サル研究の権威であり、児童文学作家としても活躍するなど、多彩な顔があった。そんな河合さんは、自然豊かな兵庫県丹波篠山市で生まれ育った。生涯、郷里の美しい自然や文化を愛した河合さんの人生をたどる。 大正13年(1924)、「河合6兄弟」の3男として生まれた。5男は、元文化庁長官で臨床心理学者として大きな足跡を残した隼雄さん。長男は外科医、次男は内科医、4男は歯科医。6男は精神科医。そんな6兄弟を育てた父親は、小学校卒業の学歴で歯科医になった苦労人だった。 河合さんは幼い頃に重い百日咳にかかり、小学校3年生のときには小児結核にかかった。このため、小学校時代は半分ぐらいし
世界中のレゲエ/ダブ・ファンを唸らせた、キング・タビーの伝記がついに翻訳!ティボー・エレンガルト著、鈴木孝弥訳『キング・タビー──ダブの創始者、そしてレゲエの中心にいた男』が5/31(金)に発売!発売を記念して本著訳者であり音楽ライターの鈴木孝弥と青木太一(タワーレコード渋谷店店長)の対談が、TOWER VINYL SHIBUYAにて決定!対談は観覧無料、この機会をお見逃しなく! 【キング・タビー】『キング・タビー──ダブの創始者、そしてレゲエの中心にいた男』発売記念 鈴木孝弥、青木太一(タワーレコード渋谷店店長)対談&サイン会 日時:6/8(土) 15時~ 場所: TOWER VINYL SHIBUYA(タワーレコード渋谷店6F) 出演:鈴木孝弥、青木太一(タワーレコード渋谷店店長) イベント詳細 https://towershibuya.jp/2024/04/30/197911 ※対談
自分以外の作家に京都を舞台にしたミステリーを書くことを許さなかった。文芸誌の広告で自分より名前が大きく掲載された作家がいると、編集者を呼び出して謝罪させた。自宅で開くパーティーには、出版関係者から芸能・財界人まで多くの人が詰めかけた――。 名探偵キャサリンシリーズなどで人気を博し、「ミステリーの女王」と呼ばれた山村美紗の評伝『京都に女王と呼ばれた作家がいた 山村美紗とふたりの男』(西日本出版社)を、作家の花房観音さんが刊行した。勝ち気で派手好きな性格として知られ、数々の伝説に彩られた女王の生涯を、2人の男性との関係を軸に等身大で描いた。 山村美紗は京都市に生まれ、日本統治下の韓国・ソウル(当時は京城)で育った。公式プロフィルでは1934年生まれとされてきたが、実際は31年生まれということが本書で明らかにされている。中学の国語教師を経て、74年に「マラッカの海に消えた」で本格デビュー。京都を
『私説ドナルド・キーン』は、日本文学の世界的権威であるドナルド・キーン(1922~2019年)に関する初の評伝である。 キーン氏は3作自伝を書いた。日本人文学者らの評伝も書いた。しかし氏自身に関する評伝は、これまでなかったのだという。“え、そうだった!? ”と、ちょっと意表をつかれる。 著者の角地幸男は、キーン著作の日本語翻訳者として知られる元英字新聞の記者で、毎日新聞の徳岡孝夫氏が翻訳から退いた後、英語で書くときの氏の翻訳を手がけて最期まで伴走した。本書冒頭の「ドナルド・キーン小伝」から、年表風にして、キーン氏の足跡を紹介しよう。 1922年 ニューヨーク・ブルックリンの中流家庭に長男として生まれる。父はスペインにも工場を持っていた貿易商で、母はフランス語をよくした 1938年 抜群の秀才であったため、2回飛び級し、16歳でコロンビア大学に入学。離婚した両親に金銭的な負担をかけまいと、ピ
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先週くらいからずっとそこはかとない倦怠感と頭痛が続いていて今週末もずっとそんな感じ。熱っぽさはあるが熱はない。これって… 「本の雑誌」の最新号を読んだら、小谷野敦の「アマゾンレビューから追い出されて」という記事が載っていた。 最近出版された『レビュー大全』という本の刊行を間近に控えて、突然アマゾンから、ガイドライン違反という理由ですべてのレビューを削除されたという。 アマゾンにメールで問い合わせても、どこがどのように違反しているのかの説明も一切ないという。いずれ回復を求めてAmazonに対して訴訟提起する予定らしい。 こういうのは本当に忌々しき事態で、Amazonに限らず、旧Twitterでもいきなり雑誌「世界」のアカウントが停止されたのも記憶に新しい(これは抗議して回復したようだが)。Youtubeにしても、いきなり収益停止やアカウントの禁止などの措置を一方的に取られる事態が頻発している
「検事を殺せッ!」数々のエピソードの中でも特に有名なのは、昭和58年1月26日のロッキード事件論告求刑公判で、検察側が田中角栄元首相に対し懲役5年、追徴金5億円を求刑した際の話だろう。小室さんは当日、酒に酔った状態でテレビ朝日の生放送ワイドショーに出演し、突如「田中を起訴した検察官が憎ーいッ!」「あの4人の検事を殺せッ! まとめて殺せッ! ぶっ殺せェーーーーッ!」「田中に5兆円をやって無罪にしろッ!!」などと絶叫して退場させられ、全国の視聴者の度肝を抜いた。 一見、単なる酔余の放言のようにも思える舌足らずで過激な発言ではあるが、背景には行政の一員である検察が、民主政治の根本である議会に干渉することを許さないという小室さんの民主主義理論があった。 村上さんは、小室さんの魅力の本質について「言説のすべてにわたって、事実と理論が統合されている点」と話す。理論を適用して事実を説明する姿勢は、角栄論
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「50年前の話を書いていて、時間軸がねじれている感覚に陥りました。ベビーカーは今も電車の中で邪魔者扱い。国家が女性に『産むこと』を強いる風潮も、何も半世紀前と変わっていない」と荒井裕樹さん=東京都千代田区で2022年7月8日、武市公孝撮影 差別への怒り、身にともし <その人は『モナ・リザ』にスプレーを噴射した。理由を知るには人生を語る覚悟がいる>。障害者文化論の研究者、荒井裕樹・二松学舎大文学部准教授(42)の新著「凜(りん)として灯(とも)る」はそんな一節で始まる。右足に障害のあるその女性はスプレー噴射で何を訴えようとしたのか。人を追い詰め、黙らせる言葉があふれる今、荒井さんはなぜ、彼女の評伝を書いたのか。 「その人」とは、ウーマンリブ運動家の米津知子さん。1974年4月、「身障者を締め出すな」と叫びながら、絵画「モナ・リザ」にスプレーを噴射した。25歳の時だ。 …
1981年3月、チャールズ皇太子(左)とダイアナ元皇太子妃(右)、エリザベス女王(中央)=ロンドンのバッキンガム宮殿(ゲッティ=共同)「まるでオトギの世界」。1953年6月に行われた英国の新女王、エリザベス2世の戴冠(たいかん)式の様子を伝える小紙の記事の見出しである。 ロンドンのウエストミンスター寺院では74カ国の代表7500人が参列していた。昭和天皇の御名代として皇太子殿下、すなわち若き日の上皇さまのお姿もある。25歳の新女王は純白のドレス姿だった。カンタベリー大僧正が、その女王の頭上に黄金色まばゆい王冠をのせた瞬間、寺院全体を揺るがすような「女王万歳」の声が上がった。トランペットが高々と鳴り響いた。 女王は本来ならば、王族の一人として穏やかな一生を送るはずだった。運命が変わったのは10歳の時だ。伯父に当たるエドワード8世が離婚歴のある米国人のシンプソン夫人と結婚しようとした。「王冠を
興行界の裏面史に迫る 『沢村忠に真空を飛ばせた男 昭和のプロモーター・野口修 評伝』 ノンフィクション作家・細田昌志さん(49) 空手を愛好する無名の青年を「沢村忠」の名でキックボクシングの帝王に仕立て、芽の出ない若手歌手を「五木ひろし」と改名させて世に送った“伝説のプロモーター”、野口修(一九三四〜二〇一六年)。七三年暮れ、五木は「日本レコード大賞」に輝き、沢村は年明け早々、初の三冠王を獲得した読売巨人軍の王貞治を抑えて「日本プロスポーツ大賞」の栄に浴した。 異分野での立て続けの快挙。「こんな人は二度と現れないと思う。どんな人物なのか、とても興味を引かれた」と明かす。当初は、聞き書きによる「自伝」を構想していた。しかし、本人も知らないことが多く、肝心なことを語ってくれなかったり、はぐらかされたりもしたため、「一から調べるしかないと腹をくくり、ノンフィクションの沼に入り込んだ」と言う。 父
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