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一つの時代が終わった、とつくづく思わずにはいられない。子供心にも戦前のこの国を多少とも知っており、「戦後は終った」といわれた1960年代にあなたがその才能を遺憾なく発揮された途方もない世代の終焉である。その時代をともに生きていられたことを、この上なく幸運なことだったといまは自分にいい聞かせることしかできない。わたくしたちは、中国大陸への理不尽な軍事侵攻が活況を呈しはじめたころ、そんな事態はまったくあずかり知らぬまま、侵攻しつつあるこのちっぽけな島国に、みずから責任はとりがたいかたちで生をうけた。早生まれのあなたとわたくしとは、年齢では一歳違う。学年で言うと二年の差があるが、ほぼ同時代人といってよかろうかと思う。 とはいえ、あなたが四国の鬱蒼とした森に囲まれた山岳地帯で過ごされたほぼ同時の幼少年期の体験のあれこれは、あなたの作品をいくら仔細に読んでみても、東京生まれのわたくしには、まるで異国
いくつもの傑作に出会うことができた 2022年2月1日、石原慎太郎が亡くなりました。享年89歳。 メディアでは追悼の意味が強いからか、慎太郎がなした功罪の「功」を中心にした報道ばかりが目につきますが、SNSではかなり事情を異にしていました。もともと毀誉褒貶はなはだしい人物ではあったのですが、ツイッターにおけるわたしのタイムライン上には容赦ないまでに「毀」と「貶」が並んでいたんです。 わたし自身、大森望さんと続けてきた『文学賞メッタ斬り!』シリーズでは、長らく選考委員を務めた氏の選評での悪文を「てにをはヌーヴォーロマン」と揶揄し、その狭量な小説観をバカにし、東京都知事時代には傍若無人な差別発言や社会的弱者に寄り添わない政治家としての姿勢を激しく糾弾してきたものです。が、しかし、石原慎太郎は小説家でもあったんです。 2013年9月、栗原裕一郎さんとの共著『石原慎太郎を読んでみた』を原書房から刊
DOL特別レポート 内外の政治や経済、産業、社会問題に及ぶ幅広いテーマを斬新な視点で分析する、取材レポートおよび識者・専門家による特別寄稿。 バックナンバー一覧 ダイヤモンド・オンラインで連載『山崎元のマルチスコープ』を毎週執筆してくださっていた経済評論家の山崎元さんが、1月1日に食道がんで亡くなりました。65歳でした。山崎さんは、2007年から15年以上にわたって同連載を執筆。投資家や一般読者の目線に立った、金融業界の“不都合な真実”に鋭く切り込む資産運用に関する記事を中心に、幅広いテーマで世の中に情報発信や問題提起をしてくださいました。そんな山崎さんに哀悼の意を表し、同連載と動画連載『【山崎元×馬渕磨理子】マルチスコープ』の中から「これぞヤマゲン節」と思える代表記事をピックアップし、ご紹介したいと思います。有料会員限定の記事を含めて、1月中の期間限定で全ての読者に向けて公開します。山崎
Published 2024/08/27 19:45 (JST) Updated 2024/08/27 20:04 (JST) 関東大震災の際に虐殺された朝鮮人らを悼む9月1日の式典に、東京都の小池百合子知事が今年も追悼文を送らないことなどに関し、在日韓国・朝鮮人と日本人の大学生らが27日、東京都新宿区の都庁付近をデモ行進した。「追悼文送付を再開しろ」「虐殺を認めろ」などとシュプレヒコールを上げ、日本政府にも調査や謝罪を求めた。 デモは大学生らでつくる実行委員会が主催し、昨年に続き2回目。「朝鮮人差別反対」などと記したうちわやプラカードを手にした約100人(主催者発表)が、JR新宿駅から都庁付近まで練り歩いた。 小池知事の追悼文不送付は8年連続。
2008年10月に山形市内で開かれたトークショー。『北の国から 2002 遺言』(フジテレビ系)で「黒板五郎」が語った“遺言”のセリフを、田中邦衛さんがあの独特の間と口調で朗読し始めると、会場には嗚咽が広がり、最後は号泣する人まで現れたという。 田中さん自ら手書きした“遺言状” このトークショーで聞き役を務めたのが、山形県内でラジオパーソナリティとして活動している荒井幸博さんだ。エフエム山形やYBCラジオに出演し、山形市内での映画祭やトークショーのコーディネイトをするなど、山形に根差した活動をしている。講演やトークショーにはほとんど出演しない田中さんが、「荒井さんが聞き手なら出る」と言うほど信頼を寄せた人物だ。 「本番前に、遺言の部分を書き写したものをお渡しして、これを読んでもらえますかとお願いしたら、邦衛さんは照れながらも了承してくださった。でも読む前に自分の手でもう一度、全部、書き直し
細野晴臣さんが2023年1月22日放送のInterFM『Daisy Holiday!』の中で高橋幸宏さんを追悼。幸宏さん楽曲を選曲しながら、幸宏さんとの思い出などを話していました。 (細野晴臣)はい。高橋幸宏が、宇宙に帰っていっちゃいました。まあ宇宙の根源っていうのは、ある種の、何て言ったらいいんだろう? 量子の海の中で、ゆりかごのような場所だと思うんですね。今、後ろで流れてるのは子守唄なんですけども。 1月11日に亡くなって、翌日その訃報を聞いたんです。遅ればせながら、追悼をやっとできる時間になりまして。それまで、ずっと言葉にならなくて。なんて言うんだろう? 考えが全然まとまらない時期がずっと続いてたんですけど。まあ沈黙してるわけにもいかないんで。今日はそういう特集をしたいと思います。 思えばですね、幸宏が16歳の時から、54年の付き合いでした。軽井沢で初めて会って。先日は軽井沢のお宅で
追悼式の会場近くで大声で抗議し、警察官らに取り囲まれた女性(中央)=23日午後、沖縄県糸満市(大竹直樹撮影) 「慰霊の日」を迎え、「沖縄全戦没者追悼式」が営まれた沖縄県糸満市の平和祈念公園で23日、式典会場の近くで「銃弾持って帰れ」などと大声で抗議する人が現れ、県職員らが制止する一幕があった。公園の外で「沖縄・アジア・中国を戦場にするな 自衛隊ミサイル配備反対」と書かれた横断幕を掲げる人もいた。 玉城デニー知事は式典終了後、「慰霊の式典なので、できるだけ静謐(せいひつ)な環境で(式に)臨んでいただきたいとお願いしていた」と述べる一方で、「あのような声が出たということも、県民あるいは(式に)参加された方々の思いの吐露なのだろうと受け止めている」との認識を示した。 追悼式の会場に向かって掲げられた横断幕=23日午後、沖縄県糸満市(大竹直樹撮影)追悼式で岸田文雄首相のあいさつが始まった23日午後
4月3日、秋山祐徳太子が亡くなった。85歳、死因は老衰だったという。 秋山さんの活動は中学生のころから知っていたが、ナマ秋山祐徳太子にお会いするようになったのは12年ほど前のこと。当時すでに70代だったが、とにかく全身から放射されまくりのエネルギー(と大声)にいきなり圧倒された。 新宿のバー、浅草の路上や居酒屋、いろんな場所で秋山さんと出会うことがあったが、ものすごくフレンドリーな秋山さんは、ものすごく汚い自宅にもどんどん招いてくれて、その暴れん坊な室内が最高におもしろかったので、2008年にまずいちど、それから『独居老人スタイル』の取材でも撮影させてもらったのが、いまとなっては僕にとってすごく大切な思い出だ。 つい先週、書店やコンビニに並んだばかりの『お一人様老後のこれで安心大丈夫』というものすごい誌名の雑誌に、秋山さんのことを書いたばかりで、掲載誌が届いたと思ったら死去の報せを受け取る
「日本史上最良のとき」を生きた芸術家 巨星墜つ。坂本龍一が亡くなった。 坂本の死をめぐって、いますでに、その偉大な歩みを総括するたくさんの記事が公開されたあとだろう。私も、それらの著者と同様に、坂本の逝去を心から悼むひとりである。 この記事は、ふたつの意味で、後追いである。多くの記事は、坂本が生きた同時代を並走し関係を持った然るべき人々が書いている。そんな中、編集部が私にくれた依頼はこうだった。私や、さらに下の若い世代にとって、坂本龍一とはなんだったか。すなわち、坂本龍一に「後追い」世代が言えることはなにか。そう、私は坂本龍一の最良のときをリアルタイムでは知らない「後追い世代」なのだ。 「その最良のときを知らない」。その思いが、長年坂本の活動を追ってきた自分の感情と距離意識を、複雑なものにしている。そしてそれは、あなたが日本という国家に抱く感情と、少し似ていたりはしないだろうか。 坂本龍一
彼の訃報は、1975年の出演作「スカイ・ハイ」の監督であるブライアン・トレンチャード・スミスが日本時間12月3日にFacebookで伝えたもの。「昨日彼が病院で息を引き取りました」「彼はいい俳優であり、私と妻にとっていい友人でした」という投稿には、キース・バーンとトレンチャード・スミスの若き日の写真が添えられている。さらにトレンチャード・スミスは「ヒューは寛大な心を持ち、助けが必要な人に手を差し伸べたり、ホームレスのティーンエイジャーたちに居場所を与えるような人だった。彼は世間で話題になるずっと前から、社会正義や環境問題について気にしていた。人類はひとつだという考えのもとに生きた人生だった。彼が見せてくれた手本やその友情を、僕らは恋しく思うだろう」とコメントした。 また「マッドマックス 怒りのデス・ロード」のフュリオサ役で知られるシャーリーズ・セロンは、Twitterにて追悼の意を表し「邪
志村が死んだ。という言い方は、常識的には不謹慎で敬意を欠くものだろう。しかし、毎週「志村、うしろ、うしろ」と真顔で叫んでいた1974年生まれ(そう、彼がドリフに加入した年だ)の私にとって、「コメディアン・志村けんさんが亡くなりました」といった「正しい」言い方はどうしても馴染めない。舞台や画面上の演者と、客席やお茶の間の観衆を明確に区別したうえで、観衆を興奮の渦に巻き込んでゆく芸能者に対して、あたかも個人的な知り合いのように馴れ馴れしく敬称をつけて呼ぶことはむしろ失礼であるように思える。 舞台と客席の、そして舞台上と舞台裏の区別は、ちょうど楽屋落ちや私生活ネタ満載の「オレたちひょうきん族」が「8時だョ! 全員集合」にかわって土曜8時の覇権を奪うあたりから本格的に崩れてゆくことになる。安直に「素顔」や「舞台裏」を見せないプロの喜劇人として、ほとんど最後の世代に属する彼に対する、お茶の間から画面
2020年10月12日、作曲家の筒美京平さんが10月7日に誤嚥(ごえん)性肺炎により亡くなっていた、というニュースが日本全国を駆け巡った。 歴代作曲家シングル総売上1位の記録の持ち主であり、1960年代から2000年代まで5代連続でシングルチャート1位を獲得するなど、長きにわたって第一線で活躍しつづけた日本を代表するメロディメーカーのひとりだ。 自らのバンドNONA REEVESで2曲のシングルのプロデュースを受け、近藤真彦「情熱ナミダ」では作詞家として筒美さんと共作した経験を持つ西寺郷太さんに、いちリスナーとして、そしてミュージシャンとして、筒美京平さんについての想いを綴っていただいた。 近藤真彦『ギンギラギンにさりげなく』を手にした、1981年のクリスマス 親に初めて買ってもらったドーナツ盤3枚のうちの1枚が、筒美京平作品だった。1981年のクリスマスのことだ。小学2年生の僕は「サンタ
追悼 宮谷一彦 宮谷一彦さんが亡くなった。2022年6月28日。心よりご冥福をお祈りいたします。 お会いしたことはない。むしろ遠ざける心理があった。それだけ大きな存在で、厄介な存在でもあったということだろう。 2000年3月「BSマンガ夜話」で、たまたま刊行された宮谷『肉弾時代』を契機に放映することになった。僕はもう自分一人で一時間喋りまくる覚悟で準備を始めたが、どう考えても彼の果たしたことを『肉弾時代』だけで語り切れないと思い、スタッフを通じて宮谷さんにお伺いを立てた。「自分の持っている単行本にもなっていないスクラップの作品も含めて、『肉弾時代』以外の作品も触れたいが、お許し願えないか」と。直後、宮谷さんから直接FAXをいただき、「そのほうがありがたい。君とはいずれこうした形で出会えると思っていた」とあった。じつは、大学生の頃僕は宮谷さんに手紙を出しており、その中で彼の作風が変化したこと
宇多丸さんが2021年2月3日放送のTBSラジオ『アフター6ジャンクション』の中でヒップホップグループSHAKKAZOMBIEとしても活躍したデザイナー、オオスミタケシさんを追悼していました。 (宇多丸)はい。ということでね、ちょっと訃報なんですよね。なのでちょっとしんみりしちゃうかもしれないけど、お許しください。僕らもね、ラップグループ……RHYMESTERも結成32年になって。キャリアを重ねてきて。まあ、私も50代ですし。そういう話が出てくる歳……でも、早いよなっていう。僕らの仲間でね、訃報を伝えなきゃいけない時ってのはちょいちょい高出てくるようになっちゃったんだけど。その中で、結構大きく報道されてるんですけど。 SHAKKAZOMBIEというグループがいて。そこのラッパーとして活躍し、そしてなおかつファッションデザイナーとして本当に世界的に評価される活動をされていたことでも知られてい
木走正水さんがお亡くなりになった。 今はもう廃刊となったJANJANでデビューしたのは2002年か03年頃でしたでしょうか。 はてなに活動の場を移されてからも、ご縁があって、いくつかご意見を交わさせていただきました。 時にはちょっと熱がこもってしまったこともありました。時に本当に失礼なことも言いました。申し訳ありません。 懐かしく思い出されます。 僕のほうは、Bewaadさんがブログをおやめになった2010年頃から 自分のブログにも実名を詮索する動きが活発になってきたこともあり、うんざりして 自分自身もはてなダイアリでの発言を控えるようになっていました。 2000年代初頭、JANJANは、創成期のネット言論空間を多少なりとも担っていました。 JANJANは、実名匿名のはざまで安定した言論空間を確立できず、数年で消滅してしまいましたが、代わりにはてなが登場し、 匿名ブログという媒体に期待を抱
画像説明, 100年前に黒人コミュニティーが破壊された事件の資料館を訪れたバイデン米大統領(1日、オクラホマ州タルサ) 米オクラホマ州タルサで1921年5月31日に黒人コミュニティーが破壊され約300人が死亡した事件の100周年のため、ジョー・バイデン米大統領は1日、現地を訪れた。アメリカ史上特にひどい人種差別暴力のひとつの事件を追悼するため、現職大統領が現地を訪れるのは今回が初めて。 事件のあったタルサ市グリーンウッドを訪れたバイデン大統領は、「もうあまりに長いこと、この場所で起きたことは、暗闇に覆われ、沈黙の中で語られてきた。しかし、歴史が沈黙するからといって、その出来事が起きなかったというわけではない。そして暗闇は多くのものを隠すことができるが、何も消さない。どれだけ大勢が地下に埋めて隠蔽しようとしても、あまりに凶悪であまりに恐ろしく、あまりに悲惨なため、決して隠しきれない不正もある
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●群馬の森の「朝鮮人追悼碑」 群馬県高崎市にある「群馬の森」。大日本帝国時代には陸軍の火薬製造所として使われた土地を、1960年代末から都市公園として再整備した県立公園だ。 群馬県近代美術館や群馬県歴史博物館をはじめとする文化施設と自然が同居する約26ヘクタールの広大な同地は、今も昔も変わらず市民の憩いの場となっている。 その一角に「記憶、反省、そして友好」と刻まれた『朝鮮人追悼碑』がある。20年前の04年に群馬県議会の全会一致の下に建立され、同地を訪れるたくさんの市民に過去を振り返る機会を提供してきた。 問題が起きたのは14年のこと。設置当初の取り決めに従い市民団体が10年ごとの許可更新を求めたところ、県は「設置条件に反する」と不許可を言い渡した。 過去に追悼碑の前で行われた追悼式で、参加者が発言した「強制連行」という発言が「政治的発言」にあたるという理由だった。背景には右派の執拗な抗
朝鮮人追悼碑の設置許可更新を巡る訴訟で、逆転敗訴し「不当判決」と書かれた紙を掲げる市民団体側弁護士=26日午後、東京高裁前 群馬県高崎市の県立公園にある朝鮮人労働者追悼碑の設置許可を県が更新しなかったのは違法として、碑を管理する市民団体が不許可処分を取り消すよう求めた訴訟の控訴審判決で、東京高裁(高橋譲裁判長)は26日、処分を違法とした一審前橋地裁判決を取り消し、市民団体の請求を棄却した。 碑は04年、原告「『記憶 反省 そして友好』の追悼碑を守る会」の前身団体が、日韓、日朝の歴史理解と友好を深める目的で設置申請し、県が許可した。「政治的行事を行わない」との条件を付けたが、追悼集会で出席者が「強制連行の事実を訴えたい」などと発言したため、県は14年に設置許可を更新しなかった。
パソコン情報誌「EYE・COM」「週刊アスキー」で「カオスだもんね!/カオスだもんね!PLUS」(1991~2020)を連載していた、故・漫画家/イラストレーター【水口幸広】氏の「水口幸広 追悼原画展」が7月21日~23日の3日間、東京・BookCafeヨミヤスミにて開催されました 元週刊アスキー編集者、現フリーライター兼プラモマニアのアカザーです。週刊アスキー(以下、週アス)で連載していたレポート漫画「カオスだもんね!」の3人のうちのひとり、ガンタンク担当アカザーが「水口幸広追悼原画展」の模様をレポートします! 全国からコアなミズグチファン カオスだもんね!ファンが集結 開催場所となった京王多摩川にあるBookCafe「ヨミヤスミ」は、カオスチームの顔の長いほう担当のシャクライさんのお店。カオス本編でも何度か紹介しているのでご存じの方も多いかもしれません。 お店は1階がカフェスペース、追
赤ブーブー通信社(有限会社ケイ・コーポレーション)を創設し、代表を務めた田中圭子(旧姓:赤桐)さんが2020年9月22日、77歳で亡くなった。10月6日に公式サイトで発表された。 赤ブーブー通信社は、同人誌即売会「COMIC CITY(コミックシティ)」を運営することで知られている。同社の後任は赤桐弦さんが務めると発表された。 「弁当沢山準備して お世話になっている みんなに配って」 公式サイトによれば、「葬儀は昨今の状況を考慮し 近親者のみで執り行いました ここに生前のご厚誼を深謝し衷心より御礼申し上げます」とし、香典や供花、供物等は辞退するとのことだ。さらに公式ツイッターには、田中さんの最期の言葉が綴られている。 「数日前のイベント会場に賑わいが戻りつつあることを喜んでいた矢先でした 最後に交わした言葉は"弁当沢山準備して お世話になっている みんなに配って"いつもスタッフやイベント現
7月26日に開催されたこじらせオンラインライブ(ゲスト:佐久間宣行プロデューサー)の収録後のおしゃべりです。『水曜日のダウンタウン』のネットニュース企画の話からいろいろ転がっていきまして……。 構成/前田隆弘 フワちゃんVSクロちゃん ──こないだの『水曜日のダウンタウン』の2時間スペシャル、見ました? 「ネットニュースに載るまで帰れません」という企画。 能町 見ました。フワちゃんが出てたやつですよね。素晴らしかった。 ヒャダ フワちゃんだったら、一瞬で終わったんじゃないんですか? 能町 それがフワちゃんは1位ではなかったんですよ。 ──フワちゃんは別収録で途中抜けしたこともあって3位だったんですけど、バズりの規模ではフワちゃんが飛び抜けてましたね。選挙の日に都庁の前でジャンプしたやつ。 ヒャダ あれは素敵でした。 能町 フワちゃんがすごかったのは、都庁の前で写真を撮った後に「『水曜日のダ
上原ひろみは、チック・コリア(Chick Corea)への追悼文を自身のSNSで発表しています 「あなたのいない世界は、同じではありません。このニュースを消化するのに少し時間がかかります。ゲイルとコリアの家族に心よりお悔やみ申し上げます。 初めてお会いしたのは17歳の時で、英語があまり話せませんでした。あなたは私に“即興でやっているの?ほとんどの曲でそうしてるの?”と聞いたようですが、何を言っているのかわからなかったので、日本人はあまりNOを言わないのでYESと答えたら、“OK、一緒に即興しよう!”と言われました。言葉が通じなくてもいいこともありますよね。そうして、1台のピアノに4つの手がありました。あなたの魔法の手をすぐ隣で見ることができて、とても興奮したのを覚えています。 一緒に演奏するたびに、あなたがいつも魔法を起こしてくれたので、私は音楽がもっと好きになりました。あなたは常に集中力
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性暴力疑惑が提起された映画監督のキム・ギドク氏が2018年6月12日午後、ソウル瑞草区のソウル中央地検に告訴人として出席し、取材陣の質問に答えている/聯合ニュース 「私は2018年にキム・ギドク監督の性暴力を扱った番組が韓国で放送された後、彼の映画を授業で教えるのをやめた。誰かがそんな恐ろしい暴力を振るったのなら、その人を称えるのは間違っている。彼が天才だったかどうかは関係ない(そして私は彼が天才だったとは思っていない)」 故キム・ギドク監督がラトビアで新型コロナウイルス感染症で死亡したことが11日に明らかになった後、映画『パラサイト 半地下の家族』の英語字幕翻訳家であり映画評論家のダルシー・パケット氏が自身のツイッターに書き込んだ文章だ。このツイートは、キム監督の死に対して韓国映画界関係者の多くが沈黙している理由をあらわしている。 キム監督は2004年にドイツ・ベルリン国際映画祭で『サマ
福田和也『遥かなる日本ルネサンス』(文藝春秋) とんかつを福田和也と一緒に食べたことがある。今となっては定かには思い出せないが、福田がまだSFC(慶応大学環境情況学部)の助教授に就任する以前、慶応大学文学部(三田)の非常勤講師をしていた頃だから、1990年代初めのことである。 私は1991年秋には福田と多少の面識を得ていた。1990年に滞在していた米国の大学図書館で、日本の言論状況を知るべく偶々読んだ雑誌に掲載されていた福田の『遥かなる日本ルネッサンス』の一部に接し、若いらしいが聡明な「保守」の登場が、記憶に刻まれていた。 1991年の帰国後、これまた偶々、ある酒場で遭遇して互いに自己紹介したのが最初である。ただ、それ以前から「福田」という名前は知らずとも、コラボラトゥールをやっている面白い研究者が、国書刊行会の周辺にいるらしいことは、蓮實重彦から漏れ聞いていた。 『奇妙な廃墟』(1990
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