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ブックマーク / blog.tatsuru.com (345)

  • まず隗より始めよ - 内田樹の研究室

    授業の合間に取材が二つ。 ひとつは三菱系のシンクタンクから「10 年後の日はどうなるか」というテーマで。もうひとつは資料請求者に配布するリーフレットの「神戸女学院大学って、こんな大学です」というパブリシティ。 両方で同じような話をする。 同じ人間が続けて話をしているのだから、内容が似てくるのは当たり前であるが、それにしてもそれは「10 年後の日が神戸女学院大学のような社会になる(といいな)」というふうに私は考えているということを意味している。 何を荒誕なことを、と笑う人がいるかもしれないが、これは私にとってはごく自然な考え方である。 今自分がいる場所そのものが「来るべき社会の先駆的形態でなければならない」というのはマルクスボーイであったときに私に刷り込まれた信念である。 革命をめざす政治党派はその組織自体がやがて実現されるべき未来社会の先駆的形態でなければならない。 もし、その政治党派

  • 中沢新一さんとペルシエでワインを飲む - 内田樹の研究室

    朝から大学で書類書き、授業、会議が三つ。それから、また書類書きで一日が暮れる。 二日間で講演依頼が6件(メールで2件、電話で3件、ファックスで1件)。全部断る。 「講演はやりません」と電話を切った後に、すぐにかかってくると「だから、講演はやらないって言ってるでしょう」と声が荒くなる。 先方には何の罪もないわけで、「だから」なんて言われても意味がわからない。 気の毒である。 けんもほろろのあしらいをうけたみなさんほんとうにすみませんでした。 武道関係の学会から講演依頼があったが、もちろん断る。 私を武道関係者の集まりに呼ぶのは、飢えたネコの群れにまるまると太ったネズミを放り込むようなものである。 たちまち八つ裂きにされてしまう。 私の武道論を読めばわかるけれど、私は現代武道の「勝利第一主義」を反武道的なものとして徹底批判している人間である。中学校の武道必修化にも反対している。 そんな主張をな

  • 「街的」の骨法 - 内田樹の研究室

    江さんが『ミシュランガイド 京都・大阪版』についてきびしいコメントを発している。 4月6日の140Bのブログに江さんはこう書いている。 ミシュランの記者会見があるので行ってきた。 このことはすでにテレビや新聞で「ミシュランガイド京都・大阪版発行へ」というふうに報道されているのだけれど、実はとある週刊誌の取材だったのだが、このところ京都・大阪の街場で、ミシュランの覆面調査員の「プレセレクション」が終わり、すでに「調査員だと名乗って追加調査」する「訪問調査」に入っているのだ。 その際のやり取りで、「取材拒否」が多く、それは「これ以上新規のお客さんが来ると困るから」とか、「星の数が少なく載せられたら困るから」とかいろんな事情があるのだが、普段来ない顔の見えない訳のわからない人に格付けされることに対しての違和感だろう。 その底には、京都・大阪といった固有の、歴史と風土と人に裏打ちされたをとりまく

  • Googleとの和解 - 内田樹の研究室

    Googleアメリカ作家組合のフェアユースと著作権をめぐる裁判が和解した結果、ベルヌ条約に参加している日の著作権者たちも年5月5日までの期限付きで、コピーライトにかかわる選択をしなければならないことになった。 和解条件によると、2009年1月5日以前に出版された書籍については、 (1)著作権者はGoogleに対して、著作物の利用を許諾するかしないか、許諾する場合、どの程度かを決める権利をもつ (2)Googleの電子的書籍データベースの利用から生じる売り上げ、書籍へのオンラインアクセス、広告収入その他の商業的利用から生じる売り上げの63%を(経費控除後)著作権者は受け取る その代償としてGoogleは著作物の表示使用の権利を確保し、データベースへのアクセス権を(個人には有料で、公共図書館教育機関には無料で)頒布することができる。 ただし、プレビューとして書籍の最大20%は無償で閲

  • 「いきなりはじめる」縁起 - 内田樹の研究室

    明日から極楽スキーなのに風邪ぎみで寝付いている。 なにしろ長いこと「休日」というものがなかったので、ひさしぶりの休日になると体調が崩れるのである。 しかし、寝ているわけにはゆかない。 スキーに行く前に締め切りの原稿を書き上げて送稿せねばならぬ。 鼻水を垂らして、咳き込みながら、釈先生の『不干斎ハビアン』(新潮選書)の書評を書く。 げほげほ。 せっかく書いたので、書評の一部をコピペしておく。 「不干斎ハビアンは戦国時代末期の人である。はじめおそらく臨済宗の禅僧であったが、のちに改宗して、キリシタンになった。仏教・儒教・道教・神道に通暁した学識豊かなイルマン(修道士)として、際立った活躍ぶりを示した。『妙貞問答』で仏教批判の先鋒を担ったが、突然、修道女を伴って棄教。晩年に『破提宇子(はだいうす)』という烈しいキリシタン批判の書を著して死んだ。一世において禅僧、キリシタン、背教者という振幅の多い

  • 人間的時間 - 内田樹の研究室

    大学で昼から会議があるので、ブログを途中まで書いて、大急ぎで投稿してしまったが、もちろん、こんな説明では誰にも意味がわからないであろう。 どうして、押韻とアナグラムは「時間的現象」であり、私たちはそれをうまく語る時間論を持っていないのか。 それについてご説明しよう。 ある行末に fountain という語を置いたら、次の行の末尾は mountain が選好されるというふうに韻が選択されるとしたら、それはずいぶん詩作において不自由なことではないか。 福原麟太郎は英国の詩人たちにそう問いただした。 答えは「ノー」であった。 なぜなら、二行並韻は「いっしょに来る」からである。 因習的に、時間意識というのは直線的に「過去から未来に向けて流れる」と考えると尾韻は音楽的な響きの代償に詩想を制限するものとして現れてくる。 末尾の同音が二行続くことの代償に、詩想が制約されることは、どう考えても不利なバーゲ

  • 翻訳についての二つの対話 - 内田樹の研究室

    高橋源一郎さんと柴田元幸さんの対談集『小説の読み方・書き方・訳し方』(河出書房新社)のゲラが届いたので、読む。 高橋さんも柴田さんも、小説を読んで、書いて、訳している。 柴田さんは不思議な味わいの短編集をいくつか出している(『バレンタイン』と『それは私です』が私の書架にはある)。 高橋さんの訳書にはジェイ・マキナニーの『ブライト・ライツ・ビッグシティー』がある。 よい訳である。 高橋さんにももっと翻訳をしてほしいけれど、小説を書く方が忙しくて、そこまで手が回らないようである。 小説を書くことの意味、小説を訳すことの意味について、たぶん現代日でもっとも深く遠くまで考えている二人による対談であるから、すごく面白い。 私はよく考えたら、小説を書いたこともないし、訳したこともない。 あれほどたくさん翻訳をしていながら、一度も小説を訳したことがない。 どうしてだろう。 一人一人には、なにか性格的趨

  • 痩我慢合戦 - 内田樹の研究室

    麻生内閣の支持率が11%まで落ちたと毎日新聞が報じている。 でも、首相は恋々として政権にしがみついている。 恋々というのも正確ではない。 おそらく、「やめどき」を逸したせいで、やめようがなくなって、困惑し果てているのだろう。 舞台に出たはいいが、退場のきっかけがわからず、観客から「ひっこめ」とトマトとかバナナの皮とか投げつけられてるのだけれど「ひっこむタイミングがわかんないんです」と半べそをかいているへぼ役者のようである。 気の毒である。 政治家の出処進退はまことにむずかしい。 「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張」 これは勝海舟の言葉である。 出処進退の決定については私には私なりの基準がある。それは公言して、他人の承認を求める筋のものでもない。毀誉褒貶は所詮他人ごとである。オレは知らんよ。 もちろん勝海舟だって、できることなら「勝先生は実に出処進退が鮮やかですなあ」とほめられたかった。 で

  • 壁と卵(つづき) - 内田樹の研究室

    村上春樹のエルサレム・スピーチについて二件の電話取材を受けたと書いた。 電話取材というのはむずかしい。 30分ほどしゃべったことを5行くらいにまとめられているコメントの場合には、「言いたいこと」が活字になっているということはほとんどない。 私が「言いたいこと」というよりは記者が「理解できたこと」が書いてある。 場合によっては記者が「言いたいこと」が私の名前で書いてあるということもある。 たぶん読む方もそれくらいに割り引いて読んでくれるだろうから、あまり硬いことは言わないつもりである。 それでも、わずかな字数では意を尽くせないことがある。 私がそのとき言いたかったことをここに書きとめておきたい。 それは「壁」というメタファーについてである。 もっとも一般的な解釈は「壁」を政治的な暴力装置、「卵」をその犠牲者と見立てることである。 もちろん、村上春樹自身もその解釈を否定しているわけではない。

  • 政権末期内閣の願うことは - 内田樹の研究室

    小泉首相の「わらっちゃう発言」によって自民党のメルトダウンが始まっている。 それにつけても、麻生政権は「もう末期」と昨秋から言われながら、なかなか倒壊する気配がない。 これはいったいどういうことであろう。 代議士たちも自身の選挙の当落についての個人的危機感はずいぶんと高いようだけれど、そのわりには政治家たちの表情にあまり「国難」を前にした危機感が見られない。 「どうしてなんでしょう」と訊かれたので、あまり考えずについ「その方が投票率が下がるからじゃないの」と答えた。 答えてから、なるほどそうかもしれないと思った。 その理路について書きたい。 支持率が20%を切った麻生政権下で迎えるにせよ、あるいは麻生退陣後の「選挙管理内閣」で迎えるにせよ、総選挙における自民党の大敗は避けがたい。 だから、現在の自民党執行部の脳裏を占めている喫緊の政策的課題は、「どうやって選挙に勝つか」ではなく、「どうやっ

  • 大統領就任演説を読んで - 内田樹の研究室

    20日、バラク・オバマが第44代アメリカ大統領に就任した。 その就任演説を読む。 そのまま英語の教科書に使えそうな立派な演説である。 アメリカという国が「もともとある」共同体ではなく、国民ひとりひとりが自分の持ち分の汗と血を流して創り上げたものだという考えが全体に伏流している。 その建国にかかわった人々への言葉が印象的である。 For us, they packed up their few worldly possessions and traveled across oceans in search of a new life. 私たちのために、彼らはわずかばかりの身の回りのものを鞄につめて大洋を渡り、新しい生活を求めてきました。 For us, they toiled in sweatshops and settled the West; endured the lash of th

  • あれから40年 - 内田樹の研究室

    修士のクロダくんが論文について相談に来る。 修論のテーマは「学生運動」だそうである。 40年前の学生運動のことについて調べたいという。 私が彼女の年齢のとき(1973年)、その40年前というと、1933年である。 ヒトラーが政権を執り、松岡洋右が国際連盟の会議場から歩き去り、滝川事件が起きた年である。 どれも、私にとっては「ジュラ紀ほど大昔の話」である。 だから、ナチスが政権を執ったときのことをリアルタイムで知っている人なんかの話を聴くと、「生きる現代史」みたいな古老だと思っていた。 けれども、よくよく考えてみたら、私自身がもう彼女たちの世代から見たら「歴史事件を語り継ぐ」古老の立場にいたのである。 69年の全国学園闘争とは何であったのか、お嬢さん、それをこの老人に聴きたい、と。 ほうほう、それは奇特な心がけだのう。 だが、あの話を若い方にご理解いただくためには、明治維新から説き起こさね

  • 読者と書籍購入者 - 内田樹の研究室

    私は論争ということをしない。 自分に対する批判には一切反論しないことにしているから、論争にならないのである。 どうして反論しないかというと、私に対する批判はつねに「正しい」か「間違っている」かいずれかだからである。 批判が「正しい」ならむろん私には反論できないし、すべきでもない。 私が無知であるとか、態度が悪いとか、非人情であるとかいうご批判はすべて事実であるので、私に反論の余地はない。粛々とご叱正の前に頭を垂れるばかりである。 また、批判が「間違っている」なら、この場合はさらに反論を要さない。 私のような「わかりやすい」論を立てている人間の書き物への批判が誤っている場合、それはその人の知性がかなり不調だということの証左である。そのような不具合な知性を相手にして人の道、ことの理を説いて聴かせるのは純粋な消耗である。 というわけで私はどなたからどのような批判を寄せられても反論しないことを党是

  • 明治の気象 - 内田樹の研究室

    大晦日に掛け取りに払うような借財はないが、「文債」なるものがある。 今年最後のそれはボヤーリン兄弟の『ディアスポラの力』の書評であり、これが終われば、とりあえず課されたすべての仕事を私は真摯かつ誠実に履行したことになる。 掃除は終わったし、年賀状も投函し終えたし、会いに来る人もいないし、会わねばならぬ人もいない。気楽な年の瀬である。 朝寝をして寝床の中で町田康『おっさんは世界の奴隷か』を読む。終日『ディアスポラの力』を読み、風呂に入り、一盞を傾けたのち『福翁自伝』の続きを読了。まことに痛快。明治の人の書き物を読んでいるうちに、明治人の「啖呵」の気合いに身体がなじんできた。 福沢諭吉という人はなかなかに気象の激しい人で、とにかく不合理なものが嫌い、威張るやつが嫌い、性根の卑しいなやつが嫌いで、ばりばり怒ってばかりいる。しかし、だからといって人を低くし自分を高くするというところがないのが爽やか

  • 仕事納めはラジオ - 内田樹の研究室

    今年は早手回しに煤払いも終わり、年賀状も出し終えたので、今年最後のお仕事に出かける。 元旦に放送する「時事放談」みたいな番組の収録のために NHK に伺ったのである。 収録済み識者諸氏の時事についてのコメントを伺ったあと、解説委員の五十嵐公利さん(うっかり「アナウンサーの」と書いてしまいましたが、一昨日はたまたまアナウンサー役を私相手にやってくださったのでした。肩書き間違えてすみません)を相手に私が1時間半にわたって勝手なことぺらぺらしゃべるのを元旦に全国放送するという大胆な番組である。 最初はこれを元旦に渋谷から生放送でやるという企画だったのである。 企画した人々の度量の大きさというか見境のなさに驚嘆するのであるが、さいわい私は「お正月はお雑煮べたり、娘にお年玉あげたり、いろいろ忙しいのでダメです」とお断りすることでことなきを得た。 それで済んだと思っていたら、じゃあ生放送は諦めて、年

  • ラジオの時代 - 内田樹の研究室

    年末にNHKラジオの収録が二回ある。 ラジオデイズ以来、ぱたぱたとラジオの仕事が続いている。 つねづね申し上げている通り、私はラジオというメディアがわりと好きである。 テレビには出ないが、ラジオには出る。 拘束時間が短いし(収録時間だけで「待ち時間」というのがない)、髪の毛ぼさぼさでパジャマ姿であっても放送上少しも困らない。 現場があまり専門職に分業化していない点もよい。 昨日来た二人はどちらもアナウンサーの方だったが、そのうち一人がMCで、一人はディレクターと録音技師を兼務。 やろうと思えば一人で全部できてしまうということである。 なにしろ制作コストが安い。 ラジオ放送のテクノロジーは「ミシン」や「こうもり傘」や「自転車」と同じで、もう改良の余地がないまで完成されている。 設備はもうできているし、そう簡単に劣化するものでもないから、その気になれば、あと50年くらいは既存の放送施設を使いの

  • 福翁の「はげしい」勉強法 (内田樹の研究室)

    文部科学省は22日、13年度の新入生から実施する高校の学習指導要領の改訂案を発表した。「英語の授業は英語で行うのが基」と明記し、教える英単語数も4割増とする。 高校の改訂案では英語で教える標準的な単語数が1300語から1800語に増加。同様に増える中学とあわせて3千語となる。中高で2400語だった前回改訂の前をさらに上回り、「中国韓国教育基準並みになる」という。 改訂案は「授業は英語で」を初めてうたった。長年の批判を踏まえ「使える英語」の習得を目指すという。(12月22日朝日新聞) 水村美苗さんの『日語が亡びるとき』を読んで、「英語の言語的一元支配」が「現地語文化」をどのように滅ぼすことになるのかについて暗い予測をしているときに、こういう記事を読まされると、ほんとうに気が滅入る。 すでに現在の日の高校生の英語学力は壊滅的なレベルにある。 それは「文法、訳読中心の授業のせいで、オー

  • 「おせっかいな人」の孤独 - 内田樹の研究室

    鹿児島に行った話を書き忘れていた。 鹿児島大学におつとめの旧友ヤナガワ先生に呼ばれて、鹿児島大学が採択された教育GPの一環として、キャリア教育について一席おうかがいしたのである。 キャリア教育については、もし「労働のモチベーション」をほんとうに上げようと望むなら、「自己利益の追求」という動機を強化しても得るところはない、と私は考えている。 その話をする。 これについては、『潮』と『新潮45』の近刊にも書いているので、繰り返しになるが、私はこう考えている。 「仕事」には「私の仕事」と「あなたの仕事」のほかに「誰の仕事でもない仕事」というものがある。そして、「誰の仕事でもない仕事は私の仕事である」という考え方をする人のことを「働くモチベーションがある人」と呼ぶのである。 道ばたに空き缶が落ちている。 誰が捨てたかしらないけれど、これを拾って、自前のゴミ袋に入れて、「缶・びんのゴミの日」に出すの

  • 大学は市場に選別されるのか? - 内田樹の研究室

    こんな記事を読んだ。 構造改革特区制度を利用して、株式会社が設立したLCA大学院大学(大阪市、学長・山崎正和中央教育審議会会長)が平成21年度の学生募集を停止することが17日、分かった。 学生数が定員を大幅に割り込み、経営難に陥っていた。 特区制度を利用して株式会社が設立した大学の募集停止は初めて。 LCA大は、経営コンサルティング会社「日エル・シー・エー」(東京)の子会社が18年に開設。大卒者を対象にした2年制で、平日夜や土日の講義で企業経営を教えている。 文部科学省によると、一学年の定員70人に対し、19年度の入学者は14人、今年度は8人と大幅に割り込んでいた。同社は20年3月末で約1億8000万円の債務超過。親会社も7月末に債務超過を公表し、事業見直しを進めていた。在校生が卒業する22年3月末までは講義を続ける方針だが、その後は廃校の可能性もあるという。 特区制度による規制緩和で、

  • 日本の外国文学研究が滅びるとき - 内田樹の研究室

    水村美苗さんの話題作『日語が亡びるとき-英語の世紀の中で』を鹿児島への機内で読了。 まことに肺腑を抉られるような慨世の書である。 『街場の教育論』で論じた日教育についての考えと通じるところもあり、また今書いている『日辺境論』の骨格である、日はユーラシア大陸の辺境という地政学的に特権的な状況ゆえに「政治的・文化的鎖国」を享受しえた(これは慶賀すべきことである)という考え方にも深いところでは通じているように思う。 とりわけ、「あらまあ」と感動したのは、「アメリカの植民地になった日」についての考察である。 明治維新のときに欧米帝国主義国家がクリミア戦争や南北戦争や普仏戦争で疲弊していなければ日は欧米の植民地になっていただろうということを言うひとは少なくないが、「植民地になって150年後の日」についてまで SF 的想像をめぐらせた人は水村さんをもって嚆矢とするのではないか。 「たと