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ブックマーク / www.kojinkaratani.com (3)

  • 日本精神分析再考(講演)(2008) - 柄谷行人

    今日、私が「日ラカン協会」に招かれたのは、かつて「日精神分析」という論文の中でラカンに言及したからだと思います。そこで私は、ラカンが日について、特に、漢字の訓読みの問題について述べたことを引用しました。今日、それについて話すつもりなのですが、その前に少し経緯を説明させていただきます。「日精神分析」という論文は一九九一年頃に書いたもので、「柄谷行人集第4巻」(岩波書店)に収録されています。これは『日精神分析』(講談社学術文庫)と題するとは別のものです。後者は2002年に書いたもので、この時点では、前に書いたものに嫌気がさした、というようなことを述べています。かつて「日精神分析」を書いたとき、自分は日人論、日文化論を否定するつもりで書いたけど、結局その中に入るものでしかなかった、と。実際、それ以後、私は「日論」について一切書いていません。だから、現在の気分としては、読み返す

  • 第14回三島賞をきっかけに」/浅田彰

    三島由紀夫賞が青山真治の『ユリイカ』と中原昌也の『あらゆる場所に花束が……』に与えられました。選考委員の島田雅彦と福田和也が、元「暴力温泉芸者」のミュージシャンである中原昌也を推し、それに抵抗する他の選考委員とのバーターのような形で青山真治の受賞も認める結果になったということでしょうか。ともあれ、あえて映画監督とミュージシャンを選ぶことで三島賞を芥川賞から差別化するという見え透いた試みが一応成功を収めたということで、戦略勝ちを収めた関係者たちは「首尾は上々」(福田和也)と大喜びのようです。 私の立場は、青山真治については明確です。私は映画『EUREKA』を反時代的な正統派の大作として激賞しましたが、そのノヴェライゼーションである『ユリイカ』は、中上健次の安易なパスティシュの域を出るものではなく、映画で語られなかった細部についても説明的に過ぎて、それなりに丁寧に書かれていることは確かだとして

  • 図像学というアリバイ―坪内祐三と加藤典洋/浅田彰

    大学闘争の渦中で山口昌男を読み、「イデオロギー」の時代から「イコノロジー」の時代への転換を予感した――高山宏がかつてそんなことを言っていた。イコノロジー? いや、イコノグラフィーと言っておけば十分だ。いずれにせよ、危険な政治からは身を引き、無害な図像学ごっこで楽しもう、というわけである。 さて、その山口昌男の弟子筋にあたる坪内祐三の『靖国』が文庫化された(新潮文庫)。靖国神社をイデオロギー的に裁断するのではなく、図像学的なものも含めたさまざまな資料から多角的に見直してみる。そうすると、軍国主義のイデオロギー装置としての性格を強化される前――少なくとも明治末年ぐらいまでは、靖国神社もいわば遊園地のように楽しい場所だったこと、そういう記憶はいまもどこかに残っていることがわかる。そのような記憶の襞を丁寧に解きほぐしていくことではじめて、イデオロギー的な裁断の届かない庶民の心情の奥底にまで分け入る

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