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Improvisationとele-kingに関するtxmx5のブックマーク (14)

  • Brian Eno, Holger Czukay & J. Peter Schwalm | ele-king

    Home > Reviews > Album Reviews > Brian Eno, Holger Czukay & J. Peter Schwalm- Sushi, Roti, Reibekuchen ドナルド・トランプとの指名争いからいち早く降りたフロリダ州知事ロン・デサンティスはこの5月、州法から「気候変動」の文字をあらかた消し去った。この改定によってフロリダ州の企業は6月1日から二酸化炭素出し放題、風力発電は禁止、公用車も低燃費ではなくなるらしい。最高気温45度も5000億円の被害をもたらした暴風雨も20センチの海面上昇も左派の陰謀で、デサンティスはフロリダ州を左派や環境活動家から守ったと勝ち誇っている。トランプが再び大統領になれば同じことがアメリカ全土に広がっていくのだろうか。アメリカの消費社会は減速しない。前進あるのみ。『Climate Change(気候変動)』というタイト

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  • Mary Halvorson | ele-king

    ぼくぐらいの世代、ないしはそれ以降の雑性リスナーになると、だいたい若い頃にいちどは阿部薫にハマって、で、ジャズをもっと聴きたいと追求している過程においてアンソニー・ブラクストンの『フォー・アルト』に行き着いたりする。1969年に発表されたそのアルバムは、初めて聴いたときは雷に打たれたような衝撃を受けるもので、まずは壮絶なテクニックとその表現力に圧倒され、そして“ジョン・ケージへ”や“セシル・テイラーへ”といった象徴的な曲名に好奇心がかき立てられもする。歴史的に言えば、そもそも伴奏無しのサックス1による演奏のみでアルバムを作ってしまうという思い切った試みはこれが最初なのだ。しかし、『フォー・アルト』は感性に身をゆだねて生まれた感覚的な音楽ではない。ブラクストンは理論家で、彼の演奏には彼のシステム論的な根拠がある。 シカゴのサウスサイド(ハウスやフットワークの故郷でもある)に生まれ、AAC

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  • R.I.P. Milford Graves | ele-king

    ジャズ・ドラマーのミルフォード・グレイヴスが去る2月12日、難病の心疾患のために亡くなった。没年79歳。 グレイヴスは、フリー・ジャズにおいてもっとも際立ったドラマーだったのだろう。ぼくよりもひと世代上の、音楽(ことジャズ)に特別な思いを馳せている人たちはほとんどみんなグレイヴスが好きだった。間章や竹田賢一のような人たちの文章を読んでいたし、ぼくは松岡正剛さんからも話をされたことがあった。そう、だから1993年のたしか初夏だったと記憶している。土取利行が企画したライヴ公演に行かない理由はなかった。 もうひとつぼくには特別な理由があった。その年、ぼくは20代最後の1年を、大袈裟に言えば24時間テクノを聴いているような生活を送っていた。隔月で海外に行くような生活だったし、雨だろうが雪だろうが毎週末をクラブで過ごし、文字通り、寝る間も惜しんで聴いていたのではないだろうか。石野卓球との『テクノボン

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  • Yoshimi O, Susie Ibarra, Robert Akiki Aubrey Lowe | ele-king

    今年に入ってからインプロヴィゼーションをよく聴いている。家や電車のなかで、あるいは世田谷のはずれをとぼとぼと歩きながら。すごい時代に生きているなと思う。70年代のドン・チェリーの作品、たとえば『オーガニック・ミュージック・ソサエティ』のようなカルト的な2枚組、はたまたアリス・コルトレーンが1982年から1995年のあいだに自主で(カセットテープで)リリースした作品が朝9時の京王線のなかでも気軽に聴けるなんてことは、少し前までは考えられないことだった。 紙エレキングvol.21にも書いたように、あるときぼくは、昨年から生演奏が入った作品(新譜)をよく聴くようになっていることに気が付いた。この場合の“生”への接近には、氾濫するデジタル・サウンドへの反動的な要素も含まれているだろう。電子音は日常生活において、もはや支配的だ。家の家電から小学校のダンスや校内放送、そしてスーパーや商店街にいたるまで

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  • 大胆不敵な音楽の熟達者たち――AMM論 | ele-king

    黙殺された歴史 「極北実験音楽の巣窟」を掲げ、一般的なメディアでは取り上げられることの少ないコアな音楽を数多く取り扱っているレコード・ショップ「オメガポイント」の新譜紹介コメントに、英国の即興集団 AMM がいま現在置かれている状況が端的に示されているように思う。まずはその文言を引用しよう。 説明の必要もない英国実験音楽の象徴だが、10年くらい前にピアノのティルバリーが抜けて、残りの二人だけでAMMを名乗っていた。それがいつの間にか三人に復活!(*1) 紹介文として適切だから引用したのではない。むしろここに書かれていることには致命的な誤謬が含まれている。およそ10年前に AMM を脱退したのはジョン・ティルバリーではなくギタリストのキース・ロウだ。さらに言えばティルバリーはそもそも AMM に途中から加入したメンバーであるし、結成から50周年という記念すべき節目に三人が集った極めてモニュメ

    大胆不敵な音楽の熟達者たち――AMM論 | ele-king
  • 即興音楽の新しい波 | ele-king

    『ジャパノイズ』の著者としても知られるアメリカ音楽学者デイヴィッド・ノヴァックはかつて、90年代後半からゼロ年代前半にかけて東京に出来したひとつの音楽シーンを、代々木Off Siteをその象徴として捉えながら日発祥のまったく新しい即興音楽のジャンルとして「音響(ONKYO)」と呼んだ(1)――もちろんそこで挙げられた数名のミュージシャンたち、たとえば杉拓、中村としまる、Sachiko M、吉田アミ、秋山徹次、伊東篤宏、宇波拓、そして大友良英らについて(ここに大蔵雅彦やユタカワサキをはじめとしてまだまだ加えるべきシーンの担い手がいたこととは思うが)、その多様な試みと実践を「音響」というただひとつのタームで括ってしまうことなどできないし、ノヴァック自身もおそらく批判を覚悟のうえで戦略的にそうした呼び方を採用しているようにみえる。それにそもそも「音響」と言い出したのはノヴァックが最初ではな

    即興音楽の新しい波 | ele-king
  • 即興音楽の新しい波 | ele-king

    『ジャパノイズ』の著者としても知られるアメリカ音楽学者デイヴィッド・ノヴァックはかつて、90年代後半からゼロ年代前半にかけて東京に出来したひとつの音楽シーンを、代々木Off Siteをその象徴として捉えながら日発祥のまったく新しい即興音楽のジャンルとして「音響(ONKYO)」と呼んだ(1)――もちろんそこで挙げられた数名のミュージシャンたち、たとえば杉拓、中村としまる、Sachiko M、吉田アミ、秋山徹次、伊東篤宏、宇波拓、そして大友良英らについて(ここに大蔵雅彦やユタカワサキをはじめとしてまだまだ加えるべきシーンの担い手がいたこととは思うが)、その多様な試みと実践を「音響」というただひとつのタームで括ってしまうことなどできないし、ノヴァック自身もおそらく批判を覚悟のうえで戦略的にそうした呼び方を採用しているようにみえる。それにそもそも「音響」と言い出したのはノヴァックが最初ではな

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  • The Necks | ele-king

    季節の即興音楽、あるいは形式に還元されざる余剰の響き 演奏の展開はいつも同じで、まず手探りのようにはじまり、まんなかで盛り上がり、静かにおわる。この曲線がかならずついてまわる。これ以上の形式がないとしたらまったく空疎だとしかいいようがない。 ――ギャヴィン・ブライアーズ 昨年の夏、とあるミュージシャンが率いるグループのライヴを観に行った話から始めよう。そこでは電子楽器とアコースティックな楽器が入り混じった7、8人ほどの演奏者たちによる、いくらか「決めごと」を設けられた即興アンサンブルが披露されていたのだが、演奏が開始したとき、もの凄く奇妙な体験をしたことをよく覚えている。まるでサイン波のような電子的な音を発する管楽器や声が、エレクトロニクスの響きと混ざり合い、どちらがどちらともつかないような、どの音がどの人間から発されているのかわからなくなるような、視覚的な風景と聴覚的な体験が撹乱されるよ

    The Necks | ele-king
  • Arto Lindsay, Paal Nilssen-Love | ele-king

  • カフカ鼾 | ele-king

  • 《《》》 | ele-king

    一度すでに体験したという感覚を、錯覚と称するのは不当であると私は思う。むしろこのような折りには、実際にかつて一度体験したことのあるものが触れられているのだが、これ自体は、一度として意識されたためしがないゆえに、意識される形では想い出されないのである。簡単に言うなら、「既視」の感覚とは、ある無意識の空想の想起に向けられたものなのだ。 ジークムント・フロイト『日常生活の精神病理学にむけて』 類例など ある演奏の録音と、それを参照せずに行われた別の演奏の録音を、そのまま重ね合わせることでひとつの音楽を生み出そうとする試みは、その系譜をたどるならばジョン・ケージの偶然性の音楽へと遡ることができるものの、近年のいわゆる即興音楽シーンにおいてもいくつか類例をみることができる。たとえば2009年にリリースされた吉田アミと中村としまるによる『蕎麦と薔薇』というアルバム。同じ年にリー・ノイズとバリー・チャバ

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  • Ju sei & Utah Kawasaki | ele-king

  • 古池寿浩 | ele-king

    松葉色の味わい深いくすみが路辺に生きる雑草を思わせる紙ケースの片隅に、井の字をあしらった切り抜きが拵えられている。そこからは生まれ落ちて成育し、楽器を手にして次の世代を残す蛙の姿の、延々とつづく生命の循環の一コマが顔を覗かせており、盤面を回転させることによって、そのサイクルを辿っていくことができるようになっている。書籍の装幀などを手掛けてきた谷田幸によるこの小粋な容れ物に収められているのは、トロンボーン奏者の古池寿浩による初のソロ・アルバムとなる『井の中の蛙』である。 1974年生まれの古池は、いわゆる音響的即興を活動の中心に据えつつも、渋さ知らズや藤井郷子オーケストラ、宇波拓率いるHOSEなどでも活躍し、元コンポステラの中尾勘二と関島岳郎とともに組んだバンド・ふいごにおいては、今年で結成15周年を迎えるという手練れである。その苗字から連想される芭蕉の名句を体現するかのような音楽は、しかし

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  • 『デレク・ベイリー インプロヴィゼーションの物語』 | ele-king

    Home > Reviews > Book Reviews > 『デレク・ベイリー インプロヴィゼーションの物語』- ベン・ワトソン (著)、 木幡和枝 (翻訳) イギリスの批評家ベン・ワトソンによって2004年に著されたデレク・ベイリーの評伝の、待望の邦訳である。訳者はベイリーの名著『インプロヴィゼーション』の翻訳に携わったことでも知られる木幡和枝。奇しくも原書が刊行された翌年にベイリーはこの世を去っており、書には彼の生涯のほぼすべてと言ってもいいだろう活動の記録が、500頁を超えるヴォリュームをもって収められている。いま「記録」とは述べたものの、スタティックで淡々と事実が列挙されるような伝記からはほど遠く、かといって通俗小説じみた物語の展開が為されるわけでもなく、ベイリーの著作における擬似対話形式を模したのだろうか、まるでこの希代の音楽家や彼と関係を有したさまざまな人物が傍らにいて語

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