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ブックマーク / khideaki.hatenadiary.org (16)

  • 常識をひっくり返すことの楽しさ - 数学屋のメガネ

    以前に宮台真司氏が、理論活動の醍醐味として、当たり前の前提から驚くべき結論が導けることというものを語っていたことがある。誰もがよく知っている当たり前のことからは、普通は平凡なつまらないことしか導かれないように見える。しかし、質を捉えた理論活動は、当たり前のことが覆い隠していた真理をさらけ出し、その衝撃的な面を見せてくれる。そんなときに理論活動というものの見事さを感じると言うのだった。 今まで隠されていた衝撃的な事実が暴かれるというのは、ジャーナリズムの世界では大スクープとして歴史に残るときがある。しかしそのようなことは少ないし、近代成熟期のように情報が管理されるような社会になったら、おそらくそのようなスクープはもう見られないのではないかと思う。スクープでさえも操作されるような時代が近代成熟期ではないかと思う。 専門家であればまだ隠された情報に接する機会もあるだろうが、それが衝撃的なもので

    常識をひっくり返すことの楽しさ - 数学屋のメガネ
  • 誰が真の「愛国者」なのか - 数学屋のメガネ

    「改正」された教育法では、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」「態度を養う」という文言が入っており、これが「愛国心」の押しつけになるのではないかという危惧が語られている。この法案反対の気分としては、「愛国心」そのものに反対するのではなく、その「押しつけ」に反対するというものの方が大きいのではないかと思う。 「愛国心」という概念そのものが嫌いだという人もいるかも知れないが、それは、その概念の中に不当なものが入り込んでいる「愛国心」のイメージではないかと思う。たいていの人は、「愛国心」そのものは必要だと思っているが、それを押しつけてくることは間違いだと感じているのではないだろうか。 それは、何が「愛国心」かという判断について、客観的な基準が設定できないからではないかと思う。それを国家が恣意的に決めることに反対する人が多いのだろう。これは、国家が決める「愛国心」

    誰が真の「愛国者」なのか - 数学屋のメガネ
    yugui
    yugui 2006/12/28
    なんだよなー。
  • 新聞社説に見る「日の丸・君が代強制」に関する考え方 - 数学屋のメガネ

    山陰中央新報の「国旗掲揚・国歌斉唱/自然体で定着させよう」という社説には共感出来る事柄が多い。ここでは、東京地裁が示した判断で、「国旗に向かって起立したくない教職員や国歌を斉唱したくない教職員に懲戒処分をしてまで起立させ、斉唱させることは思想良心の自由を侵害する」というものを妥当なものと受け止めている。 ここで重要なことは、「懲戒処分をしてまで」と言うことで、このような処置が伴うことによって選択の自由を奪うことが問題なのだと考えられるわけだ。しかし、「国旗・国歌を敬うのは当然」と思っている人は、その前提の方が「内心の自由を尊重する」ことよりも上位に来てしまうので、反対をするという拒否の意志を示しただけで何か悪いことをしているかのような判断をしてしまう。だが、内心の自由を尊重することこそが民主主義の財産だと思えば次のような判断をするようになるだろう。社説では 「問題は、それを強制することの是

    新聞社説に見る「日の丸・君が代強制」に関する考え方 - 数学屋のメガネ
    yugui
    yugui 2006/10/13
    単なるウヨサヨ批判に陥らずに検討しようとしている。
  • 言語における使用価値と交換価値のアナロジー - 数学屋のメガネ

    シカゴ・ブルースさんの「貨幣の使用価値」というエントリーを読んで、自分の論理というか、言葉の使い方である語彙に混乱があるのに気がついた。交換価値と言うべきところで使用価値という言葉を使ったりしているような気がした。これは、頭の中では思考が先へ行っていたにもかかわらず、表現がそれに追いつかずに、言葉が混同してしまったようだ。 そこでもう一度、言葉の使い方に気をつけながら、自分が何を言いたかったのかを考えてみたい。言いたいことの中心は僕がソシュール的だと思ったもので、具体的な国語の違いから来る言語規範のずれが、思考のずれにも影響を与えると言うことだ。これは、ソシュール的と表現はするものの、ソシュール自身が語ったかどうかは分からない。内田さんが紹介するソシュールの言説を基に、そのようなものだろうと僕が想像したものだ。 言語規範のずれを、語義がかぶっているにもかかわらず意味に違いがあると言うことか

    言語における使用価値と交換価値のアナロジー - 数学屋のメガネ
    yugui
    yugui 2006/10/01
  • 科学における定義について - 数学屋のメガネ

    三浦つとむさんは、ソシュールの「言語」の定義が、実際に表現された具体的な言葉としてのものではなく、頭の中の認識である規範になっているという批判を行っていた。これは、「言語」の定義としてはふさわしくないと言う批判だ。これは、具体的なコミュニケーションの場で使われる「言語」について解明しようとする三浦さんとしては、その理論の展開からすれば当然すぎる批判だろうと思う。規範はコミュニケーションの道具ではあってもコミュニケーションそのものではないからだ。 しかしソシュールは具体的なコミュニケーションを分析しようとしたのではないように僕には見える。ソシュールは、そもそもは様々な具体的な言語の成立と変遷の歴史を研究していたように見える。ソシュールにとっての関心は、具体的なコミュニケーションの場で使われる言語ではなく、まさに規範としての言語がどのような歴史を持っているかと言うことだったのではないだろうか。

    科学における定義について - 数学屋のメガネ
    yugui
    yugui 2006/09/18
    ソシュールの「言語」
  • 植草一秀さんの事件について - 数学屋のメガネ

    植草一秀さんが痴漢行為で逮捕されたというニュースがあった。僕は、このニュースにかなり大きな違和感を感じている。ある意味では、つじつまのあわなさを、この「物語」に感じているのだ。逮捕されたというのは「事実」ではあるが、痴漢行為をしたというのはまだ確認されてはいない。それはまだ「事実」の段階に至っていないのだが、マスコミ報道などを見ると、それがあたかも「事実」のように取り扱われているのにまず違和感を感じる。 その傾向が顕著に表れているのは、日刊スポーツの見出しに書かれている「懲りない植草教授、今度は痴漢で逮捕」というような言葉だろう。「懲りない」という表現には、前回の事件も、今回の事件も、明らかに植草さんが犯罪を行ったという前提の下にこの記事を書いていることがうかがえる。 しかし、僕は植草さんが前回の事件においても犯罪行為を行ったというふうに思えないところに、今回の事件のつじつまのあわなさを感

    植草一秀さんの事件について - 数学屋のメガネ
    yugui
    yugui 2006/09/16
    うん。今回の事件が事実だとすると、前の事件での理路整然とした反論とイメージが噛み合わないんだよね。
  • 批判の妥当性 - 数学屋のメガネ

    「話」が通じない原因として、相手の言っていることを理解せずに、自分の的はずれな解釈で相手の言説を判断すると言うことがある。このとき、相手の的はずれを指摘する言説の方は、それが妥当性を持っていることをどうやって証明したらいいだろうか。場合によっては、相手の的はずれを指摘する言説の方が実は的はずれだったということがあるかも知れない。 論理の正しさをどう評価するかという問題は、単にディベート的な言い争いで勝ったか負けたかという現象的な理解ではなく、客観的に、マトモに論理が扱える人間だったら誰が見てもそう判断出来るというものでなければならない。そうでないと、相手が黙ってしまえば、言い争いには勝ったという形になるので、それで論理的にも論破出来たのだと思ってしまうかも知れない。だが、それは単に声の大きさと圧力で相手を黙らせただけなのかも知れない。どこに論理の正しさがあるかを、客観的に指摘出来るだろうか

    批判の妥当性 - 数学屋のメガネ
  • イラク人質事件の際のバッシング再考 - 数学屋のメガネ

    仲正昌樹さんが『なぜ「話」は通じないのか』(晶文社)というで、イラクの人質事件の際の議論の噛みあわなさを考察している。基的には、論点のずれがあるにもかかわらず、どちらもそれに気づかず、自分の論点の主張をしているので、議論が噛み合っていないという指摘だ。議論を噛み合わせるには、何を議論しているかというお互いの了解があって、両者がマトモに議論を使えるだけの技術を持っているという基礎がなければならない。そうでないと、「話は通じない」ということになってしまう。 イラクの人質事件で問題なのは、議論が噛み合っていないということもあるが、さらに重要なのは、そこで人質になった3人に不当なバッシングがされたことだ。「自己責任論」という言葉で有名になったものだが、このバッシングは、まともな批判ではなく、根拠のない人格攻撃にまで発展してしまったので不当性が言われていた。 普通は、このような不当なバッシングは

    イラク人質事件の際のバッシング再考 - 数学屋のメガネ
  • リベラルの側の失敗とバックラッシュ - 数学屋のメガネ

    今はやや下火になってきた感じがするが、ちょっと前の一時期にネット上での「サヨ叩き」というものが席巻した時があった。イラクでの人質事件に関連して、人質になった3人を叩く言説がその典型だっただろうか。 そのほとんどは、論理としては全く不当なもので、非難する理由のないところにまでけちをつけて文句を言うためにアラを探す、あるいはアラを作り出して捏造するという感じのものまで見えたものだった。自作自演だというような非難はその際たるものだったかも知れない。 イラク人質事件の3人は、いわゆる左翼系の人々だと言うことで、それだけを理由にして叩かれる対象になったとも考えられる。これは全く不当なことで、根拠ある正当な批判であれば議論をする価値もあるのだが、これらのバッシングはバックラッシュと呼ぶにふさわしい反動ではないかと感じたものだ。 これら根拠のない非難を浴びせる人間たちはかなりの多数に達したものの、彼らは

    リベラルの側の失敗とバックラッシュ - 数学屋のメガネ
  • 数学における文章理解 - 数学屋のメガネ

    数学の読み方は、他の分野のの読み方と違う、かなり特殊性を感じるところがある。数学というのは、その内容においては誰が考えても同じ結論に達するものとして考えられる。つまり内容的な個性はないと言える。個性があるとしたら、その書き方と言うことにある。どのように対象に近づいていくかという方法の違いがあるだけのように感じる。 僕は学生の頃数学を勉強するときは、その入門書を片っ端から探してきて、その冒頭の部分を次々と読んでいった。だいたい50冊くらいに目を通すことが多かっただろうか。その中で、対象へのアプローチの仕方がぴったりと自分の理解力に合うものが見つかると、その入門書を徹底して読むという勉強の仕方をしていた。 内容的にはどれを読んでも同じだから、表現として自分の個性にぴったり合うものを見つけることが大事なことだった。やがてはそれは記号論理学的な表現に出来るものが自分の個性に合うものになり、普

    数学における文章理解 - 数学屋のメガネ
  • 「北朝鮮」のミサイル発射を論理的に理解してみる 1 - 数学屋のメガネ

    哲学の一部でもある論理学の応用として現実の出来事を整合的に理解する努力をしてみたいと思う。それは、論理的に可能な命題を考えられる限り探し出して、現実をその可能な場合のどれかだと考えるのがまず第一歩だ。それを決定するのは難しいと思うが、もっとも可能性が高いものが現実化したのだと受け止めることで、その事実を整合的に論理的に理解する道を見つけたいと思う。 まずは大前提として 1 「北朝鮮」は合理的に説明のつく行動をしている。 というものを置きたいと思う。この前提がないようなら、論理的に考えることも無意味になってしまうからだ。人間の行動は、理解しがたいと言うものがあるかも知れないが、まったく理屈に合わないメチャクチャなものというのはないという前提だ。たとえその理屈が間違えていても、行動する人間は、何らかの理屈に従って行動するというのを大前提に置いて考えたいと思う。それが間違えている理屈なら、その間

    「北朝鮮」のミサイル発射を論理的に理解してみる 1 - 数学屋のメガネ
  • 天皇個人に対する偏見 - 数学屋のメガネ

    先週のマル激では天皇制について論じていた。ここで僕の関心を引いたのは、議論されていたのが、天皇制という抽象的な制度という対象ではなく、具体的な天皇個人の問題として語られていたことだった。それは現在の明仁天皇を巡る問題だったり、昭和天皇である裕仁天皇を語るものだったりしていた。 天皇制という制度を巡っては、理論的には、それがすべての差別の根源であるという主張があったり、戦争における失敗が天皇制軍国主義というものに帰して考えられているところがある。僕もかつては、これらの主張を素朴に信じていた。しかし、マル激の議論を聞いていると、問題はそれほど単純ではないのではないかと感じるところがある。 天皇という存在は、無条件の絶対的な聖性を持っていると考えられている。聖なる存在として、無条件の頂点に位置するというその属性から、反対の極にある、もっとも穢れた存在というものを必然的に生み出すという考え方が、理

    天皇個人に対する偏見 - 数学屋のメガネ
    yugui
    yugui 2006/05/30
    宗教は「社会の安定に貢献する」。一方「注入された宗教がいかに社会を破壊するか」。
  • もう一つの偏見について - 数学屋のメガネ

    偏見というものが不当性を持つのは、それが社会的弱者に対してであることが多い。偏見とは文字通り「偏った見方」であり、ある一面を捉えて、そこから得た解釈が、対象の全面であるかのごとくに扱って考えることを言う。 以前に多勝一さんが、アメリカの黒人を取材したときに、その差別された現状に同情して善意から黒人へ近づいた人々が、現実の黒人たちに嘘つきや泥棒が多いことに大きなショックを受けるだろうと書いていたことを思い出す。 嘘つきや泥棒が黒人に多いことは事実だったから、それと黒人であるという属性とを結びつけて、例えば黒人は道徳的・倫理的に劣っているという見方をすれば、それは偏見というものになる。実際には、黒人だからという理由で嘘つきや泥棒を説明出来るのではなく、その社会的状況などを、一面的にではなく多面的にその影響を考慮に入れて考えなければならない。それが出来ないと偏見という間違ったメガネで対象を眺め

    もう一つの偏見について - 数学屋のメガネ
    yugui
    yugui 2006/05/28
    「双方が自分の間違いを認めず、相手の批判で終わってしまった論争においては、正しさは何も証明されなかったと受け止めなければならないのではないだろうか」
  • 自らの誤謬から学べること - 数学屋のメガネ

    偏見からの「構造的無知」が晴れてみると、自分の論理展開がまったく無理な詭弁であることがよく分かる。まさに構造的無知というのは、その人にはまったく見えないことが、外にいれば容易に見えてくるという構造を持っている。ばかげた論理を展開したものだと思う。 僕は「構造的無知」から、自らの過剰反応に気づかず、むしろ批判する側の方を過剰反応だと思い込んでいた。しかも、その過剰反応は、気に入らない言説を叩くためだけに批判しているのではないかという、被害者意識につながっていた。これも「構造的無知」から来る妄想だ。 被害者意識を持ったことが、逆に僕の攻撃性を増す方向へと働いてしまった。向こうが叩いてくるなら、叩き負けないくらいに叩き返さなければならないと言う感情が生まれてしまったのだ。守るために攻撃するというメンタリティは、男に多いものだろうか。とにかく、そのメンタリティによって、誤解からとはいえひどい言葉

    自らの誤謬から学べること - 数学屋のメガネ
    yugui
    yugui 2006/05/24
    これを書けるこの人は凄い。単なるポーズではここまで書けない。この人の記事を読んでてよかった。
  • トラックバック先のエントリーに対する雑感 - 数学屋のメガネ

    トラックバック先のエントリーでの批判はほとんど的はずれだと感じているのだが、部分的に気になるところを雑感として記録しておこう。まず「こんな主張誰がしてるの?」の中の次の部分だ。 「ちなみに、「クラス名簿を男女混合にする」ってのは、あるかもしれない。しかしその真意は、「男女別にする正当性はどこにもない」というところからきているはずだ。もちろん、「男女混合」にもいろいろなものがあるだろう。家がお金持ちの順番とか(笑)、背の高さ順とか、学校から家までの距離が短い順とか。そのどれもが恣意的でしかない。もちろん、「あいうえお順」だって恣意的なのである。しかし、どんな順番も恣意的であるなら、その暴力的な要素が少なく、かつ調べるコストがかからないような順番がよいであろう。「あいうえお順」が最も正しいとは思わない。それに代わってより暴力的でない案があれば、僕はそちらに乗り換えてもいいと思っている。ただ現状

    トラックバック先のエントリーに対する雑感 - 数学屋のメガネ
  • フェミニズムのうさんくささ - 数学屋のメガネ

    弁証法の論理には「両極端は一致する」という法則がある。極端というのは、一般論的に考えると、現実に存在する物事をある一面からしか見ないということになる。来なら多様な面を持っていて、多様だからこそ、視点を変えれば矛盾した結論も導かれてしまう現実存在を、一面からしか見ないのであるから、これは他面を無視した誤りに導かれる。 両極端からの主張というのは、それが誤りに導かれるという点で共通しているが、この誤りが論理的には一致する結論にまで到達するというのが、弁証法でいう「両極端は一致する」ということだ。これは面白い法則だと思う。極論を主張する人間は、それが極論であることによって、実は否定したい対象を肯定してしまうという誤りに陥ってしまう。 この極論による誤りは、視点を固定してしまう面があるので、形而上学的誤謬とも呼ばれている。これは、批判の出発点の正しさを持っている考察が陥りやすい誤謬なので、良心的

    フェミニズムのうさんくささ - 数学屋のメガネ
    yugui
    yugui 2006/05/19
    「極論を主張する人間は、……という誤りに陥ってしまう」わかってるじゃん。ジェンダーフリー批判のつもりが極端に走って、そもそもジェンダーフリーと相容れないような主張を作り出して批判してるとどうなるのか
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