父の盧行瑫が嶺南の新州(広東省雲浮市新興県)に流されたので、その地で生まれ育つ。父が早くに亡くなり、慧能は薪を売って母親を養っていた。ある日、町で『金剛般若波羅蜜経』の読誦を聞いて感動し、出家を思い立つ。東山の五祖弘忍の下に参じたところ、弘忍は慧能に問いかけて試す。慧能は見事に応じて入門を許されるが、文字が読めないため行者(あんじゃ)として寺の米つきに従事する。そんな中、数百人の弟子を飛び越えて弘忍から跡継ぎとして認められる。 その後、弘忍の法を受け継いで広州に帰り、兄弟子の印宗より具足戒を受けて正式な僧侶となり、曹渓宝林寺(広東省韶関市曲江区)に移って布教を続け、兄弟子の神秀より朝廷に推挙されるも病と称して断り、以後713年に亡くなるまで布教を続けた。 慧能が弘忍の跡継ぎとして認められた時のでき事として、次のような伝説がある。弘忍は悟りの心境をうまく詩に表せた者を後継者と認めようと言い、