以前、オーム社開発部の出版体制を取材しましたが、今回、私自身がそのシステムを使って本を書きました。 Subversionでバージョン管理をしつつLaTeXで本を書く形式です。 複数人で本を書く時にバージョン管理ツールを使わないと、誰がどこをどういじったのかがわからなくなったり編集箇所が競合する場合が多いのですが、Subversionを使うことでそれらが解決可能です。 さらに、筆者か編集者のうちの誰かがsvn commitを行って最新版を更新すると、それに連動して最終原稿として印刷所に入稿されるものと同じ形のPDFが自動的に生成され、DTP作業がゼロになるとともに、筆者がアウトプットを細かく確認ができるという特徴もあります。 しかも、Subversionのコミットメールを編集者側も見ていて、該当部分に対する編集やコメントがすぐに投入され、こちらが文章を書いた数分後に編集側意見が含まれるPDF
Random writings of a retired physicist Continuation of "Ted's Coffeehouse" (now being restored in archives of this site) Copyright © 2001-2022 by Tatsuo Tabata [Go to English version (introductory paragraph only)] 学士會会報の最新号に英文学者・外山滋比古氏が「日本語にはパラグラフが存在しなかったため、『欧米の言語構造が、パラグラフ単位で意味を積み重ねている』ことを見落とし、これを軽視した。今もってわれわれが欧米文化の根本を理解しきれていないのは、ここに原因がある」と述べている [1]。私は、これに全く同感であり、先日この引用文を私の英訳とともにツイッターで述べた。氏はさらに、「知
ずいぶん前から作っていた原稿が、ようやく本として出版された。出来上がった本を、原稿の下読みを手伝ってくれた若い先生方にあげたんだけれど、「ずいぶん読みやすくなったんですね」なんて、驚かれた。 外からみて分かりにくいものの価値について。 読みやすさは分からない 原稿の読みやすさという価値は、本というプロダクトを外から眺める人から見ても、分からない。世の中には、読みやすい本と、読みにくい本とは確実にあるけれど、同じ原稿を、作者が書いたそのままを本にしたものと、編集者が手を加えて、読みやすくしたものと、両者を比較できる機会というのは、そう滅多にないだろうから。 読みやすさは、たぶん作者の側からも、よく分からない。本を書いている側は、同じ原稿を、本になるまでに何十回も読み返すから、編集者が原稿に手を入れる最終段階になると、もう書いた内容の大半を暗記してしまう。その内容に慣れすぎてしまって、今さらそ
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