【読売新聞】編集委員 丸山淳一 ひと山を丸ごと石垣で固め、青や赤の瓦や黄金を使った建造物が日の光に輝く。山の頂上には地下1階、地上6階、高さ32メートルの天主(※)がそびえる――。宣教師ルイス・フロイス(1532~97)がその威容を
天正10(1582)年、天下統一を目前にした織田信長が討たれた本能寺。民間調査会社「文化財サービス」(京都市南区)が同市中京区の寺跡を発掘調査したところ、溝状遺構の底から格子状に編まれた木製品が大量に出土した。さらに調査を進めると信長の時代と関係のない、寺の造営前の土地造成跡だという。溝を作り、木製品を入れたのは誰なのか。取材と検証を進めると、意外な戦国大名にたどりついた。 謎の溝と木製品 当時の本能寺は京都市役所前の現在地から西約1・5キロの場所にあった。今回の調査地は山門が想定された西洞院通沿い。かつて行われた北隣の調査で本能寺の変当時の遺物・遺構が出ただけに、今回も成果が期待された。 そして令和3年、約2カ月をかけて200平方メートルを調査したところ、溝状遺構の底から竹や木を格子状に編んだ木製品が大量に出土した。「木舞(こまい)」と呼ばれる土壁の基礎とみられている。 「信長が寺を京都
大垣城で展示されている「おあむ物語」(複製)。女性たちが敵の首に化粧を施す挿絵が描かれている岐阜県大垣市を訪れると、地元のマスコットキャラクター「おあむちゃん」をよく見かける。モチーフになったのは慶長5(1600)年の関ケ原合戦の際、石田三成率いる西軍の拠点となった同市の大垣城にいた、おあむという名の女性だという。彼女が語った内容を後世、書き起こしたとされる「おあむ物語」は女性目線で語られた戦記文学で、当時の戦場の姿を生々しく伝える。おあむは大垣がたどった歴史の語り部として今も生き続けている。 敵の首に化粧おあむは西軍を率いた石田三成の家臣、山田去暦の娘で、関ケ原合戦当時は17歳だったとみられている。晩年に周囲の子供たちにせがまれて話した昔話を聞いた人たちによって、関ケ原合戦から110年余りを経た江戸前期の正徳年間(1711~16年)に書き起こされたとされるのが、「おあむ物語」だ。
【読売新聞】編集委員 丸山淳一 NHK大河ドラマ『どうする家康』で松本潤さんが演じる主人公、徳川家康(1542~1616)ゆかりの品々を集めた「NHK大河ドラマ特別展 どうする家康」が、家康の生誕地、愛知県岡崎市の岡崎市美術博物館
1591年12月に秀吉は甥の秀次に関白を譲って「唐入り」に専念し、九州や四国の兵糧を肥前の名護屋周辺に集めるよう命じた。さらに、先の使節派遣で朝鮮の「服属」を信じていた秀吉は、渡海して協力を取り付けてくるよう小西行長と宗義智に指示している。 しかし、朝鮮には端から日本に味方するなどという考えはなかった。それゆえ、秀吉は約16万の兵を9軍に編制し、1592年4月に朝鮮への侵攻を開始する。いわゆる「文禄・慶長の役」である。 なお、韓国では長らく「壬辰(じんしん)倭乱」(2度に分ける場合は文禄の役を壬辰倭乱、慶長の役を丁酉〈ていゆう〉再乱)と呼称するのが一般的であったが、最近では日本・朝鮮・明の三カ国がかかわった国際戦争という意味を持たせるために「壬辰戦争」という用語を使っている。 まず小西行長と宗義智の第1軍が朝鮮に上陸し、4月13日(明暦では14日)に釜山城を取り囲んだ。早朝に攻撃を開始した
世宗は現在韓国人の間でもっとも人気のある国王といっても過言ではない。1万ウォン札に想像画が描かれるだけでなく、都市名にも採用されて2012年に「世宗特別自治市」が発足している。 これほどまでに彼が人気を集める理由は、民族独自の文字を研究し、1443年に「訓民正音」と命名して制定したからであろう。訓民正音とは、民に正しい音を訓(おし)えると読む。当時、人間の発する音声は単なる音ではなく、万物の真理が込められていると考えられていた。それゆえ、世宗は朱子学の漢籍を正しく発音して学ぶために音韻の研究を奨励し、漢字が読めない庶民でも理解できる表音文字を作り出したのである。 今日この文字は一般的にハングル(偉大な文字)と呼ばれている。しかし、そのような呼称が定着したのは20世紀以降に民族意識が高揚してからのことである。朝鮮時代は漢字以外の文字を持つことは蛮夷の仕業と考える華夷意識が強かったため、訓民正
豊臣秀吉が最晩年の16世紀末に築いたとされる城郭「京都新城(しんじょう)」の堀にあった石垣の一部が、京都御苑(京都市上京区)内の京都仙洞(せんとう)御所から新たに出土したことが19日、市文化財保護課の調査で分かった。3年前に堀の対面で石垣が見つかった際、堀の幅は約20メートルと推計されていたが、今回の位置だと幅は半分程度の10・8メートル。本丸への橋を架けるなどの目的でこの部分だけ石垣が出っ張り、幅が狭くなった可能性があるという。「幻の城」とも称される京都新城の構造解明が一歩進んだ形だ。 京都新城は慶長2(1597)年、京都御所の南東に東西400メートル、南北800メートルにわたり築かれたとされる。秀吉の死後は正室、高台院(北政所(きたのまんどころ))の屋敷となった。高台院が寛永元(1624)年に亡くなると徳川幕府が解体、同所に退位した天皇の住まいとして用いられた仙洞御所が造られた。 文献
発言小町 「発言小町」は、読売新聞が運営する女性向け掲示板で、女性のホンネが分かる「ネット版井戸端会議」の場です。 ヨミドクター yomiDr.(ヨミドクター)は、読売新聞の医療・介護・健康情報サイトです。 大手小町 大手小町は「どんな私も、好きになる。」をテーマに、キャリアや恋愛・結婚、ジェンダーにまつわる情報を発信するサイトです。 idea market idea market(アイデア マーケット)」は、読売新聞が運営するクラウドファンディングのサイトです。 美術展ナビ 読売新聞が運営する美術館・博物館情報の総合ポータルページです。読売新聞主催の展覧会の他、全国美術館の情報を紹介します。 紡ぐプロジェクト 文化庁、宮内庁、読売新聞社で行う「紡ぐプロジェクト」公式サイト。日本美術と伝統芸能など日本文化の魅力を伝えます。 読売調査研究機構 東京、北海道、東北、中部、北陸を拠点に、著名な講
*** 鎌倉時代に成立した歴史書「吾妻鏡」は、鎌倉幕 府3代将軍の源実朝を「予言者」として描いている。国文学者の藪本勝治氏が指摘するように、「吾妻鏡」における実朝は、夢のお告げや祭祀(さいし)を通じて神仏と交信できる神がかった人物として、一貫して 造形されているのだ(「『吾妻鏡』の文脈と和田合 戦記事」『軍記と語り物』56号、2020年)。源実朝が「源氏将軍家は私の代で断絶する」と“予言”したことは良く知られているが、他にもいくつか例を挙げよう。 和田合戦を予言した実朝 承元4年(1210)11月24日、駿河国建穂寺(たきょうじ)(現在の静岡県静岡市葵区建穂に所在)からの使者が将軍御所に到着した。21日に同寺の鎮守である馬鳴大明神が「酉の年に合戦があるだろう」とお告げを行ったというのだ。 そこで大江広元は「本当かどうか占いで確かめてみましょうか」と提案した。すると実朝は「21日の暁に自分も
*** 承久3年(1221)5月15日、後鳥羽上皇は北条義時討伐の命令を発した。承久の乱のはじまりである。19日にこの情報に接した鎌倉幕府首脳部は驚愕した。幕府の最高指導者である義時が「朝敵」、すなわち朝廷に対する反逆者と名指しされたのだ。動揺した御家人たちが幕府を裏切り、後鳥羽方につく恐れは大である。 しかし、北条政子の「頼朝公のご恩は山よりも高く海よりも深い」という有名な演説によって御家人たちは結束した。5月22日の早朝、義時の長男である泰時がわずか18騎を率いて京都に向けて進発した。率先して出陣することで、上皇への反逆に尻込みする御家人たちを鼓舞しようとしたのである。泰時を追いかける形で、北条時房(義時の弟)、足利義氏、三浦義村・泰村父子も出撃した(「吾妻鏡」)。 幕府軍の迅速な出陣 「吾妻鏡」承久3年5月25日条によれば、22日から25日にかけて御家人たちは順次出撃した。最終的に幕
織田信長の「天下布武」の朱印「天下布武(ふぶ)」。戦国の覇権を目指した武将、織田信長(1534~82年)の印章に刻まれた印文は、武士による国内統一への思いを反映するとされてきたが、近年は「天下」を、将軍が治める畿内(山城・大和・河内・和泉・摂津)とし、室町幕府の再興への思いを表現したとの説も有力視されている。戦国時代になって、印章は名前を記すだけでなく、それぞれの理想を表現するなど多彩な展開を見せる。公文書などに記す花押(かおう、図案化したサイン)も多様なものになっている。そんな戦国武将の印章や花押、家紋、戦場で使われた馬印、旗印を集めた特別展「〝シンボル〟が彩る戦国の世」が大阪城天守閣(大阪市中央区)で開かれ、注目を集めている。 「天下」は畿内?織田信長は永禄10(1567)年、美濃国(岐阜県南部など)に侵攻。稲葉山城主だった斎藤龍興(たつおき)を攻めて敗走させ、居城を小牧山城から、稲葉
石田三成の居城だった佐和山城跡=滋賀県彦根市城だけでなく城下町ごと堀や土塁などで囲む「惣構(そうがまえ)」の外堀とみられる溝が発見された戦国武将、石田三成(1560~1600年)の居城「佐和山城」(滋賀県彦根市)。主君の豊臣秀吉は指月(しげつ、京都市伏見区)に築いた伏見城を惣構としているが、家臣の城では、佐和山城が初めてとみられる。豊臣方の惣構は三成も従軍した「小田原征伐」(1590年)で、豊臣軍の攻撃を受けた北条氏(後北条氏)の小田原城(神奈川県小田原市)を参考にしたといわれる。惣構は城や町の防御だけでなく、戦時に大軍を収容する機能を有していたとみられ、豊臣陣営では三成が率先して惣構を採用したのかもしれない。 城や町を防御溝跡が確認されたのは佐和山城下町の北西端付近で、幅約10メートルの溝を約7メートルにわたって検出した。地形などの痕跡から外堀が約90度屈曲すると推定される場所で、溝の最
現在の桂川河川敷で出土した遺構。建物や堀の跡などかつての淀津の姿をほうふつとさせる=京都市伏見区平安~江戸時代にかけ京の玄関口でもあり、荷揚げ港として栄えた「淀津(よどつ)」とみられる遺構が京都市伏見区の桂川河川敷で見つかった。歴史書「日本後紀(こうき)」にも登場する重要港として知られるが、遺構が出土したのは今回が初めて。さらにそのうちの一つで、戦乱の跡がうかがえる戦国期の巨大な堀が、淀津が重要拠点だったことを裏付ける存在として注目を集めている。京都市埋蔵文化財研究所(市埋文研)は、今月から場所を拡大して発掘調査に取り組んでおり、新たな発見に期待がかかる。 初めての発見淀津は国の記録として、9世紀に編纂(へんさん)された日本後紀に初めて登場。延暦23(804)年に桓武天皇が行幸(ぎょうこう)したことが記されている。
運慶作の可能性が高い満願寺の観音菩薩立像㊨と地蔵菩薩立像=横須賀美術館平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍、ことしが800年遠忌(おんき)にあたり、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも登場した大仏師、運慶(?~1223年)。本拠地の奈良や京都での仏像制作が目立つが、源頼朝が樹立した鎌倉幕府の有力御家人が発願したとされる「満願寺」(神奈川県横須賀市)に安置された2体の仏像は、文献や考古資料の精査から、運慶やその工房による造像の可能性が高いことが分かった。幕府の歴史をつづった「吾妻鏡」に、頼朝が三浦義明の供養のために建立したとある「一堂」は、満願寺との指摘もあり、2体の仏像制作は頼朝、幕府の依頼だったとの見方もある。この仏像は横須賀美術館(同市鴨居)で開かれている「運慶~鎌倉幕府と三浦一族」(9月4日まで)に出展され、注目を集めている。 義明へ感謝注目される仏像は、像高224・2センチの観音菩薩立像
新発見の長谷川等伯作「仏涅槃図」を調べる宮島委員長(左手前)ら調査会のメンバー=令和元年8月、京都・知恩院(北國新聞社提供)水墨画の傑作「松林図屛風(しょうりんずびょうぶ)」(国宝)で知られる長谷川等伯(1539~1610年)は、近年になって新しい作品の発見が相次ぐ珍しい絵師だ。理由はこの10年、出身地である石川県七尾市など北陸地方を中心に、詳細な調査が実施されたことが大きい。その成果として、若き日の等伯が一級の仏絵師のもとで学んだことや、信仰した日蓮宗の人脈を生かして、武田信玄や織田信長ら権力者に近づき、大きな仕事を獲得したことも分かってきた。 早くから評判調査は平成22年、等伯の没後400年を記念して石川県の県紙・北國新聞社と地元信用金庫などがスタートさせた。『長谷川等伯』(ミネルヴァ書房)などの著書がある宮島新一・元九州国立博物館副館長を委員長に、一昨年11月、約10年に及ぶ調査を終
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