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思想に関するNORMANのブックマーク (11)

  • 民主主義2.0とカール・シュミットの「民主主義」 - 過ぎ去ろうとしない過去

    東浩紀の「民主主義2.0」の議論は、実は朝生を見たぐらいであとは断片的にしか追いかけてないのだけれど、情報をある程度総合するに、彼はルソーの直接民主主義を引用しながらこの新しい「民主主義」のあり方を説明しているらしい。しかし、ぼくにはもう一人、彼の議論には隠された登場人物がいるような気がしてならない。それは、カール・シュミットである。東浩紀がシュミットを読んでいることはすでに明らかになっている。そして、シュミットもルソーを引用して「民主主義」を説明するのだ。 1923年に出された『現代議会主義の精神史的地位』において、シュミットはルソーの「一般意志」について次のように述べている。「人民は元来決して具体的な内容に協賛を与えるのではなく、抽象的に、投票の結果現れる一般意志に、協賛を与えるのである。・・・この結果が個々人の投票の内容と誤っているならば、評決に敗れた者は、彼が一般意志の内容について

    民主主義2.0とカール・シュミットの「民主主義」 - 過ぎ去ろうとしない過去
  • ポストモダンが要請する新たな政治パラダイム――Stakeholder Democracyという解 - on the ground

    私はリアルタイムで見ていたのですが、昨日の『朝まで生テレビ』に出演した東浩紀さんが、「インターネットがある現代なら、5〜10万人の規模でも直接民主政が可能だ」と力強く語っていました。この発言は、これまで彼が展開してきた一連の議論の延長線上にあるものなので、彼の読者にとっては特段新鮮な印象を与えるものではありませんが、その内容が刺激的なものであることは確かです。 過去に何度か採り上げているように、デモクラシーの新たな形についての東さんの提起に対して、私には賛成できるところとできないところがあります。明確に賛成できるのは、私たちが置かれている「ポストモダン」という社会状況についての認識と、「政治的意思決定の仕組みというものを原理的なところから考え直してみる必要がある」との問題意識に対してです。「ポストモダン」なる社会認識については、昨年「現代日社会研究のための覚え書き」と題したシリーズ記事で

    ポストモダンが要請する新たな政治パラダイム――Stakeholder Democracyという解 - on the ground
  • 2009/10/23 朝生後のTwitter上での議論まとめ

    東浩紀 Hiroki Azuma @hazuma 誤字が多かったので再ポスト。「高橋氏はparticipatory budgetを市川市に部分的に導入したらしいし、小黒氏とも話があった。雨宮さんもBIに賛成していたし、結局この世代の考えていることはだいたい一致しているんだと思った。ただそれが既存の政治的言説に乗っていないだけで。 2009-10-24 06:30:17

    2009/10/23 朝生後のTwitter上での議論まとめ
  • 暴力の定義について - on the ground

    http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20091008/p1 「文化的暴力」というのは概念的には半端で、無くてもいいものだと思う。政治的には重要なんだろうが。 それにしても、「暴力」の語に反発を覚える人は多い。以下はまず、ご参考までに。 「暴力とは何か」(2008年6月15日) この記事で引用されている箇所の前段も少し長めに引いておく。 それでは、再び「暴力violence」についての議論に戻ろう。管見の限り、暴力概念についての厳密かつ独立した定義として検討に値するのは、ほとんどJ.ガルトゥングによる定義しかない。ガルトゥングによれば、暴力とは、「可能性と現実の間、すなわち、可能であったことと今ある状態との間の差異を生じさせた原因」である。すなわち、「暴力が存在するのは、人々が実際に肉体的・精神的に実現したものが、彼らが潜在的に実現し得たものより低水準になるような形

    暴力の定義について - on the ground
  • 「カレーの作り方」に関する哲学的考察―序論 - 今夜だけでもときめきたいんだ―TOkimeki_TOnightの日記

    ネタ, 自己満足 | 01:01 | 「カレー作り」も哲学 都城高専教授、リポートで単位認定 - 県内のニュース - miyanichi e press 「カレーの作り方」という主題を果敢にも選び取り、哲学の講義の単位を勝ち得ようと広大な海で脆き船を漕ぐあほのような諸君の羅針盤と成るべくここに指針を示す。*1 「哲学的」考察への方法論哲学はおよそ複雑な分野であるが、最も大きな枠組みとして以下の三つに分断出来よう。〈存在論〉〈認識論〉〈価値論〉である。このうち価値論は倫理学という分野として確立している事はご存知であろう。稿においては着眼点を存在と認識という軸に置き、価値論については省く事を余儀無くした。先ず何よりもそこに至った経緯、根拠の説明せねばなるまい。 価値論の排除―私に根付く「カレー」という〈絶対的〉価値「カレーの作り方」及び「カレー」における価値論を語ろうと試みる時、或る固定され

    NORMAN
    NORMAN 2009/07/31
    "後に残される問題―「カレー味のうんこ」「うんこ味のカレー」という極地" これは期待せざるをえない!
  • かかわりあいの政治学2――個体の「本質」を疑う - on the ground

    (承前) 前回、何が「自分のこと」であるのかは、何が自分に「関係する」のかについての意識に依存していることを述べて、いわゆる「自己決定」原理が前提としている論理を抉り出して見せた*1。今回は、その関係の主体、意識する主体について、掘り下げて考えてみたい。丁度、roryさんに言及を頂いたのを契機に、少し前に気になった一節を思い出したので、それを足掛かりにしよう。 言語哲学の有力説によれば、名前(固有名)は、決して(それによって指示される個体の)性質についての記述に還元されえない。「大澤真幸」という名前は、「社会学者で、大学教員で、松の出身で……」といった、アイデンティティの内容を示す諸性質の記述に置き換えることはできない。理由は簡単だ。これら諸性質のすべてを失っても、大澤真幸は大澤真幸だからである。だから人は「大澤真幸が松出身でなかったならば」等のことを、いくらでも仮想できる。要するに、

  • 1968+40 - 荻上式BLOG

    昨日のイベントでは、テーマがテーマだけあって年齢層の幅広い、400人以上の方に来場いただいたとのこと。ありがたや。既にレポがいくつかあがってますので、ご紹介。 http://uiyun.jugem.cc/?eid=2355 http://blog.goo.ne.jp/li006011/e/9a8386647250ff7ebe3ea752de2fceaf http://d.hatena.ne.jp/klov/20080924/1222235472 http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20080923/1222183831 http://d.hatena.ne.jp/man_machine/20080923#p1 http://web.sfc.keio.ac.jp/~ryosuke/tippingpoint/2008/09/synodos196840.html

    1968+40 - 荻上式BLOG
  • 「シノドスシンポ 1968+40 全共闘もシラケも知らない若者たちへ」 - 絶倫ファクトリー

    Guest | Cash Advance | Debt Consolidation | Insurance | Free Credit Report at Kazuyaserizawa.com 1968 年、世界中の大学で紛争の波が巻きおこった。日でも既存の左翼を批判して学生たちが立ちあがり、〈自由〉を求めて警官隊と激しい攻防戦を繰り広げた。あれから40年。あの体験は何をもたらしたのか。また、その記憶は、これからの我々にとって何になりうるのか。多様な切り口でこの問題を論じてきた、幅広い世代の論者たちと、東大闘争の内部を目撃した唯一の写真家、渡辺眸のスライドショーが届ける、新しい「1968年」。 基調講演/渡邊一民 司会/芹沢一也 荻上チキ パネリスト/絓秀実 酒井隆史 橋努 鈴木謙介 写真協力/渡辺眸 日時:2008年9月23日(祝) 開場13:30 開演14:00 場所:立教大学池袋

    「シノドスシンポ 1968+40 全共闘もシラケも知らない若者たちへ」 - 絶倫ファクトリー
  • 「○○思想(体制)が生み出した犠牲者は〜」論法 - 過ぎ去ろうとしない過去

    別に関係の無い話として読んでもらってかまわないのですが、「○○思想(体制)が生み出した犠牲者は××人である。だから○○はロクなもんじゃない」という論法への違和感について。 もちろん、虐殺という結果にいたった思想や体制はまったく擁護できないし、それは失敗であったと言わなければいけないと思います。しかしです。こうした議論の帰結は「だから○○思想を持ってるやつはロクなやつじゃない。反省せよ」になることが多くて、それにはとてつもなく違和感を覚えてしまうのです。え?それその思想を支持している人だけの問題なの?ということです。いやもちろん、その思想に対するつじつまを持ってない人はつける必要は無いわけですが、そうした思想が社会に浸透することを問題化するならば、誰もが責任が無い傍観者ではいられなくなるのです。つまり、ある思想のもとで多くの虐殺が起こっているならば、それは思想そのものに虐殺を引き起こしうる内

    「○○思想(体制)が生み出した犠牲者は〜」論法 - 過ぎ去ろうとしない過去
  • 普遍性を めざす 運動としての 死刑反対 2008-08-04 - やねごんの日記

    1.やすおか大臣の ふしぎな 発言 きょうは、毎日新聞が 報じている 保岡興治(やすおか・おきはる)法務大臣の 死刑を めぐる 発言を とりあげます。この発言は りくつが ねじれていたり たがいに むじゅんしあっていたりして、どう りかいしたら よいのか、とまどって しまうものでは あります。しかし、ひじょうに きょうみぶかい点が あるようにも おもうのです。 ●保岡法相:「終身刑は日文化になじまぬ」 - 毎日jp(毎日新聞) 保岡興治法相は2日の初閣議後の記者会見で終身刑の創設について、「希望のない残酷な刑は日文化になじまない」と否定的な考えを示した。 法相は「真っ暗なトンネルをただ歩いていけというような刑はあり得ない。世界的に一般的でない」と述べた上で、「日は恥の文化を基礎として、潔く死をもって償うことを多くの国民が支持している」と死刑制度維持の理由を述べた。 終身刑を巡っては

    普遍性を めざす 運動としての 死刑反対 2008-08-04 - やねごんの日記
    NORMAN
    NORMAN 2008/08/05
    "わたしたち国民は 死刑のなかで くらしているのだ"/「悪即斬」が喝采を浴びるなかでの死刑廃止の戦略とは如何なるものか
  • 事実が必要とされない理由 - on the ground

    死刑や治安悪化言説についても当てはまる現代に共通の問題として、「必ずしも事実が求められていない」ということが挙げられる。求められているのは事実よりも物語であることが多い。死刑の犯罪抑止力を証明する根拠が無いことをいくら説いても、死刑存置派が減ることはなく、治安の悪化を示すデータが見当たらないことをいくら訴えても、治安悪化神話の支配的影響力は衰えない。 もちろん、「事実」を指し示す言説があまり行き渡っていないという面もあるだろう。マスコミの影響力を「主犯」として最も問題視する立場の人々は、その点を強調する。だが、森達也が各所で指摘しているように、マスコミがあるステレオタイプの報道図式を採用し続けるということは、何だかんだ言いつつもそれを求める層、マスコミの紋切型報道を支える土壌が確実に存在しているということである。そういう土壌こそ、マスコミによって耕されたのかもしれない。だが、どちらが先かは

    事実が必要とされない理由 - on the ground
    NORMAN
    NORMAN 2008/08/03
    "「必ずしも事実が求められない」""全てが相対化されざるを得ない状況の中で、アイデンティティの断片を相互に繋ぎ止めるために、信じられる物語が必要とされるのである"
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