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「英米は存在の文法をもたない」。つまり無のようなものだが、戦後の教育の英語への傾倒で軽視された独語が、いま密かに再翻訳ブームだ。そこで浮き彫りにされるのは、従来の日本語の定訳がほとんど仏教的な先入観による誤訳ですらあった、ということだろう。確かに近代は神の名を不要とするが、だからといって悟れない人々の因果応報だけに固執するのは、存在の問題ではない。(リード文未推敲) ※コメントはツイッター宛にお願いします。 ツイッターもまとめも、宣伝のためにやってるのではなく(宣伝なら逆効果だ)、ただ日本の国語を特異化させる近代的自我の日本における困難、つまり無我は単なる馬鹿だぞ、と呟いてるだけなのだが、それをあえて「仏教が」と名詞にしてやると、途端に反発される、気色悪い人たちだ(苦笑)(^-^)/ http://togetter.com/li/720158 の続き。
前者を偽史で成立したマナーとして批判し、実際に歴史ある後者を推す意見を見かける。ひとつひとつを名指しはしないが、「“江戸しぐさ”“小笠原流”」といった単語で検索してみると複数ある。 両者の歴史についてくわしくはないのだが、たまたま別件で調べていた時、両者を同時に肯定的にとりあげている論文『作法学の構想』を大学サイトで見かけた。 作法学の構想 日本の伝統的礼式(たとえば小笠原流)では,作法に対する用語を儒教的人倫を基準としているためか「礼法」と称している.しかし「礼法」の「礼」では「礼式・儀礼」など、対人場面での儀式的な所作の規範に限定されるニュアンスがある。ところが伝統的作法(書)でも実際には,風呂に入る時にどちらの足から入るべきか(たとえば「中島摂津守宗次記」)など、日常のさまざまな非対面場面での動作法も含まれる。 これからの作法の構成を考えるとき,伝統的作法体に根本的に欠けていた要素が
今週のお題「ついつい集めてしまうもの」(今週のお題は、「ついつい集めてしまうもの」です - はてなダイアリー日記) 仕事(趣味)の関係で古書をよく購入しますけど、ページの合間に残されていた物を手にして旧蔵者のことに思いを馳せることがしばしばあります。いろいろな物が挟まったまま売りに出されていますよね。押し花・押し葉もたまにあって、少し嬉しい気分になったり。処分するわけにもいかず、集めています。 一番多いのは、著者からの謹呈票でしょうか。無記名がほとんどですが、謹呈先の「〇〇先生」「〇〇様」が書かれている票を挟んだまま古書店に売り払うのは、少し具合が悪いと思うので注意すべきではないかと・・・。蔵書印と同じで書籍の来歴がわかるのは良いのですが。意外と少ないのはしおりで、意外と多いのは領収書・納品書の類。名刺も見かけますね。しおり代わりに使っているのでしょう。 手元のコレクションからいくつか。一
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