続きです。 川端康成の「十六歳の日記」作中日記部分には発表時たんなる字句の訂正を超えた加筆訂正があったのではないか。川嶋至がそう問うたのは、すでに見たように『川端康成の世界』の中である。川嶋はそこで複数の論拠を挙げて、その証明を試みている。しかし、第二章「宿命の影」の該当箇所で川嶋の論証を読み始めた者は、すぐに落ち着かない気分に捕われるはずだ。川嶋の論証が、論証として、妥当性を欠いているように思えるからである。 たとえば、一番目に示された論拠。これは、九巻本選集の「あとがき」ならびに十六巻本全集の「あとがき」(後年「あとがきの二」となるもの)に「机代りの背継(踏台)」を用いて日記を書いたとあるのに、作中日記部分ではそれが「抽出し」付きの「テーブル」となっているという指摘である。この事実を受けて川嶋が言うには、「二度まで氏が机ではなかったとしるしている以上、それを信ずるとすれば、この日記には