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『不適切にもほどがある!』はなぜ「平成」をスルーするのか。宮藤官九郎の「平成サブカル」への矜持(福田 フクスケ)
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『不適切にもほどがある!』はなぜ「平成」をスルーするのか。宮藤官九郎の「平成サブカル」への矜持ド... 『不適切にもほどがある!』はなぜ「平成」をスルーするのか。宮藤官九郎の「平成サブカル」への矜持ドラマ評 後編 『ふてほど』のうかつな描写はクドカンの確信犯か宮藤官九郎は、現在活躍している脚本家の中でも、とりわけ自身の感覚や価値観のアップデートを試みてきた作家だと思う。 特に2013年の『あまちゃん』以降の作品において、その傾向は顕著である。 たとえば、『ごめんね青春!』(2014年)や『ゆとりですがなにか』(2016年)では、単なる男女間の対立や世代間の断絶を越えた両者の融和を描こうとした。 『監獄のお姫さま』(2017年)では、虐げられてきた女性が結託して復讐するシスターフッドを、軽快なクライム・コメディに仕立てあげた。 大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』(2019年)では、スポーツを通して女性へのエンパワーメントや、国策としてのオリンピック批判などを物語に織り込んできた。 し