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宮崎駿と司馬遼太郎と「欲望を直視する」ことが難しい時代の功罪|三宅香帆
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宮崎駿と司馬遼太郎と「欲望を直視する」ことが難しい時代の功罪|三宅香帆
今週は司馬遼太郎をよく読んでいた。久しぶりに『坂の上の雲』をぶっ通して読んだのだ。最初は原稿のた... 今週は司馬遼太郎をよく読んでいた。久しぶりに『坂の上の雲』をぶっ通して読んだのだ。最初は原稿のために読んでいたのだが、どんどん面白いからという理由に傾いていったような気がする。 読みながら考えていたのは、司馬遼太郎ほど評価が揺れ動いている作家もいないよな、ということだ。そもそも司馬遼太郎という作家は何が上手いといえば、人を「煽る」のが上手い人なのだ。司馬遼太郎の書く文章を読んでいると、欲望を煽られる。それは総括すれば「ちょっと良い人間になりたい」欲望だ。なにか大きなもののために働きたい。誰かよりも強くなりたい。人に何か教養を語りたい。それは単純に登場人物に自分を投影するという範疇を超えて、司馬遼太郎の紡ぐ言葉には、人の眠る欲望を煽る力がある。 だからこそ高度経済成長が終わった70年代に読まれた理由はよくわかる。時代そのものに欲望が満ちている時代には、こういうブーストは、いらないのである。