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花田清輝に関するfromAmbertoZenのブックマーク (4)

  • 日本語練習虫

    『石井茂吉と写真植字機』(写真植字機研究所、1969年)第三章「未知に挑む」の「文字のサイコロ」の項に、今年100周年を迎えた写真植字機の最初の文字盤は「活字の清刷をそのまま湿板法でガラスに複写したもの」だったが実用に耐えず、次に「便宜的にその頃一般的に使われていた築地書体の十二ポイント活字の清刷りを青写真で四倍の大きさに拡大し、墨入れして字母をつくった」ものが試され、最終的に「茂吉は写真植字独自の文字を自分でつくることにした」と書かれています(103-104頁)。 ウェブ年表によると(https://archive.sha-ken.co.jp/history/)、昭和51930年の「仮作明朝体」完成を経て昭和81933年「石井中明朝MM-A-OKS」が出来上がっています。 少なくとも仮名の書風に関していわゆる築地体後期五号仮名を受け継ぐものと言われる「石井中明朝 オールドスタイル小がな

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  • 花田清輝ルネッサンス・プロジェクト

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  • ●連鏡講座「花田清輝——その芸術と思想」第五回

    『社会評論』110号、発行=小川町企画、販売=土曜美術社出版販売、1997年12月 ●連鏡講座「花田清輝——その芸術と思想」第五回 芸術運動家としての花田清輝 ——対立物を対立したまま統一する花田弁証法の実践 武井昭夫 はじめに——戦中の抵抗から戦後の開花へ 花田さんの仕事は、その目指していたのが綜合的芸術論でしたから分野も多岐にわたっていて、かつ、勤勉な方でしたから厖大な量があり、今回、その全体をフォローしてお話する時間的な余裕もありません。また準備も不十分ですし、今までやってきた四回の講座とそこでの討論を踏まえて、いわばそのおさらいといくつかの補足といった程度の話になるかと思いますが、お許しください。 いま、花田さんの仕事を考えるとき、戦争中の花田さんの文学と思想の形成の問題、それが戦後に開花して、戦後の文学芸術運動を牽引し領導していくわけですが、そのプロセスと意義をふりかえってみる、

  • 若き日の花田清輝を自伝執筆のための秘書として雇っていたというイー・トンハ氏ってどういう人物?-『別冊新評 花田清輝の世界』感想 - わが忘れなば

    花田清輝は、ぼくの大好きな批評家で、このブログの最初の記事でも『冒険と日和見』(増補版、1973年、創樹社)を取り上げている。一時期ちょっと読んでない期間があったけれど、最近になって、未読だった『近代の超克』や『恥部の思想』を読んだら、やはり、その鋭い批評精神と豊かなレトリックにしびれてしまった。たとえば、チャップリンの『ニューヨークの王様』を論じながら、天皇の戦争責任を追及するという一篇が素晴らしかった。 近代の超克 (講談社文芸文庫―現代日のエッセイ) 作者: 花田清輝出版社/メーカー: 講談社発売日: 1993/02メディア: 文庫 クリック: 1回この商品を含むブログを見る わたしが、かれら(武井・吉・鶴見)の戦争責任のとりあげかたを感傷的だと考えているのは、そういう観点(罪即罰という観点)にわたしが立っているからではなく、かれらが天皇の戦争責任にたいしてほとんどくちをかんし、

    fromAmbertoZen
    fromAmbertoZen 2013/07/16
    さっきの『国防と朝鮮人』の著者の李東華氏が、花田清輝を雇っていた人物なのか? う~ん、確証が持てない。
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