クリストファー・ノーラン監督作『ダンケルク』についての評論を、「リアルサウンド映画部」に寄稿しました。 ▼(クリックで記事を表示します) 「なぜ『ダンケルク』は“薄味”に感じるのか?ノーラン監督の作家性と“戦争映画”としての評価を考察」 賛否飛び交う本作、本物の実写映像にこだわるノーラン監督の作家性やねらい、極力セリフを排し無声映画へ接近する理由、映画の「体感と絵画性」についてなど、できるだけ深く突っ込んでたっぷり批評していきます。
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「マッドマックス」シリーズは、ともにオーストラリア出身のジョージ・ミラー監督、メル・ギブソン主演による、凶悪暴走族とひとりの警官の戦いを描いた近未来カーアクション映画としてスタートした。 予算が少ないぶん体を張って、危険なカースタントを敢行し話題を呼んだ一作目、それに加えて、凶悪暴走族が跳梁するアブノーマルな世界観を、新鮮なダークファンタジーとして描いた、独自性ある二作目などは人気を呼び、このシリーズをきっかけに、ジョージ・ミラーは監督として、メル・ギブソンは、人種差別発言を繰り返していたことが周知されハリウッドから敬遠されるようになるまでは、アクションスター俳優として成功し、監督としてもアカデミー監督賞を受賞するまでに社会的成功を収めた。 シリーズ三作目から30年ぶりに完成した新作、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』は、前作までのイカレてエッヂの立ったヴィジュアルを大幅にエスカレート
『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』は、マイケル・キートン演じる、ブロードウェイで再び名声を勝ち取ろうとする一人の俳優の奮闘を追ったコメディ映画だ。 アメコミヒーロー映画「バードマン」の主演俳優として一世を風靡したものの、それはすでに過去の栄光となり、中年も終わりに差しかかっているリーガン・ トムソンは、私財を投げうち、全く経験のない世界である、ブロードウェイでの文芸作品を基にした演劇に主演し演出をするという、無謀な賭けに出ている。 家庭はすでに崩壊して、アシスタントとして雇った実の娘は薬物中毒で反抗的。共演者マイクはプレビュー公演をぶち壊し、舞台の成功を左右する演劇批評家からは、酷評してやると宣言されてしまう。 果たして、実力派俳優として再起し、人生を立て直そうとする彼の目論見は成功するのだろうか。 今回は主に、本作『バードマン』で描かれた重要なテーマについて、ゆっくり
今年もベストテンの時期がやってまいりました。 『ムーンライズ・キングダム』の、「あのトランポリンのところで話そう」というギャグは腹を抱えて笑いましたし、怪獣と巨大ロボのことしか描かなかった『パシフィック・リム』の潔さ、『死霊のはらわた』や『悪魔のいけにえ』の、出来の良いリメイクが作られるなど、アメリカ映画の安定したクォリティと幅の広さに、改めて圧倒された1年でした。 その一方で、高畑勲監督と宮崎駿監督の、おそらくは最後、そして代表作のひとつになるだろう劇場長編作が公開されるというビッグイベントもあり、選定が非常に困難であったことを書き添えておきます。 それでは、ランキングの発表と講評をどうぞ。 01.『リンカーン』 Lincoln スティーヴン・スピルバーグ アメリカの良心と、崇高な理念を結実させるための妥協と権謀、そして個人的な理想が人類の夢につながっていく過程を力強く描ききった、スティ
『ダークナイト』や『ウォッチメン』、『300』、『パシフィック・リム』、『マン・オブ・スティール』など、コミック原作やオタク向けの題材を、大人や広い観客層にも楽しめるような、リアリスティックな路線で実写映画化することでヒットを連発してきたレジェンダリー・ピクチャーズが、東宝から『ゴジラ』使用の権利を譲り受け、(東宝担当者は「出演者」を貸し出したと表現)ハリウッドでの再映画化に挑んだ。 それ以前にも、ローランド・エメリッヒ監督による映画化作品『GODZILLA』があったものの、そのシリーズ続編が制作されることがなく、そこから今回の映画化までに長くブランクがあったのは、このエメリッヒ版が、興行的には成功したものの、内容について非常に評判が悪く、続編構想が頓挫し、その後怪獣映画そのものが企画として通りづらくなってしまったという経緯があるからだ。 宇宙人襲来を描いたSF映画『インデペンデンス・デイ
『借りぐらしのアリエッティ』は、私が観てきた実写映画、アニメーションを含めた作品群の中でも、最低最悪の位置に属するであろう、思い出すのも汚らわしく感じる、こうして『借りぐらし…という文字をタイプするだけで、いくらか具合が悪くなるほどの、忌むべき劣悪な作品であると思っている。 こんなに退屈な思いをしたのは、桃井かおり監督作品を観ているときと、親戚の自慢話を聞いている時間以来だった。 もはや映画の内容を判断するとかしないとかのレベルではなく、同じ時間トイレに監禁された方が幾分マシと思えた程だが、それでも私が公開当時、劇場で退席しなかったのは、この作品を、意地でも観たのだ、という既成事実を作るため、もうその一点しかなかった。 これを聞いて、「え?そうかな?そんなにひどいかな?」と感じる人もいるかもしれない。実際、ネットを中心とした反応では、あの『ゲド戦記』と比較すれば、はるかに穏当なものであり、
以前、ブログ記事『借りぐらしのアリエッティ』 脅威!不毛の煉獄アニメーションを書き、かなり悪し様に言葉を尽くして、米林宏昌監督をののしった。そのくらい、米林監督の初監督作『借りぐらしのアリエッティ』のつまらなさというのは、人智を超えたものだった。 そもそも、テーマやストーリー以前に、何を見せたいのか、何を感じさせたいのかが不明瞭なほど、演出のレベルが低くセンスも無いために、作品としての体(てい)を成していなかった。 仮に、目一杯好意的に見て、スタジオジブリ作品で初監督を務めることのプレッシャーや現場の意思疎通不足、混乱などを加味しながら、演出の不備を最大限に看過し擁護するとしても、それでも最も失望し驚かされたのは、作品から感じられる個性や野心の欠如、創造性の欠如、知性や主義主張の欠如、ユーモアと観客へのサービス精神の徹底的な欠如という、あまりにも根本的な資質や姿勢が欠如していたことであり、
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