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ブックマーク / lever-building.hatenadiary.org (10)

  • 普遍性を めざす 運動としての 死刑反対 2008-08-04 - やねごんの日記

    1.やすおか大臣の ふしぎな 発言 きょうは、毎日新聞が 報じている 保岡興治(やすおか・おきはる)法務大臣の 死刑を めぐる 発言を とりあげます。この発言は りくつが ねじれていたり たがいに むじゅんしあっていたりして、どう りかいしたら よいのか、とまどって しまうものでは あります。しかし、ひじょうに きょうみぶかい点が あるようにも おもうのです。 ●保岡法相:「終身刑は日文化になじまぬ」 - 毎日jp(毎日新聞) 保岡興治法相は2日の初閣議後の記者会見で終身刑の創設について、「希望のない残酷な刑は日文化になじまない」と否定的な考えを示した。 法相は「真っ暗なトンネルをただ歩いていけというような刑はあり得ない。世界的に一般的でない」と述べた上で、「日は恥の文化を基礎として、潔く死をもって償うことを多くの国民が支持している」と死刑制度維持の理由を述べた。 終身刑を巡っては

    普遍性を めざす 運動としての 死刑反対 2008-08-04 - やねごんの日記
  • ケンリなのかギムなのか - やねごんの にっき

    「権利」と「義務」。対概念とされるこの2つは、なんと相互に入れ替え可能だった! ためしにワープロの置換機能をつかって、日国憲法の「権利」を「義務」に、「義務」を「権利」にすべて置きかえてみても、ちゃあんと意味が通る文章になるではないか。 というような話をどこかで読んだ記憶があるのだが、出典が思い出せない。たぶん小田嶋隆さんの昔のコラムじゃないかと思うんだけど。 実質的な「義務」が「権利」と称され、反対に「権利」が「義務」へとすり替わる国家というのを想像すると、けっこう気味が悪い。 「納税は国民の侵すことのできない権利である」なんて言って、みんながお布施でもするかのように嬉々として税金を納める。義務としての兵役が課されないかわりに、国防軍への志願者があとを絶たない。靖国で戦友と会うのが無上のよろこび。そんな美しい国。 このような実質上の「義務」が「権利」と称される状況は、あながち空想的なデ

    ケンリなのかギムなのか - やねごんの にっき
  • 「こくご はいしろん じょせつ」への ほそく - やねごんの にっき

    まえに かいた こくご はいしろん じょせつという きじに 2どほど id:ma_zuさんから コメントを いただいて おりました。いそがしくて のびのびに なっていた ふたつめの コメントへの おへんじを かこうと おもいます。コメントらんに かくつもりが、だいぶ ながくなったので、あらたに エントリを たてる かたちで こちらに アップします。 いかは ma_zuさんより いただいた ふたつめの コメント。 返信ありがとうございます。 エントリを読んだのですが結局「なぜ漢字をなくすべきなのか」がよく理解出来なかったので、質問しました。 公用語としての日教育を廃止したい旨はわかりましたが、その場合の言語教育をどうするのか?(英語なり他の言語を公用語とするのであれば、ひらがなは不要では?) いずれにせよ、コミュニケーションにおいては用いる言語に対する共通認識が必要であり、漢字を廃止した

    「こくご はいしろん じょせつ」への ほそく - やねごんの にっき
  • こくご はいしろん じょせつ - やねごんの にっき

    「かんじは いらない」と しゅちょうしますと、しばしば、「いや、《にほんごにとって》 かんじは ふかけつなのだ」という かたちの はんろんを うけます。こうして、「かんじを つかわない 《にほんごは》 かのうなのか どうか?」といったところが ろんてんに なってしまうわけです。 しかし、じつは ひらがなーきすと(ひらがなアナーキスト)にとっては 《にほんごに おいて》 かんじが どんな やくわりを はたしている(いない)のか、なんて ことは、だい1の もんだいでは ありません。というのも、ひらがなーきすとには、もっと もっと おっそろしーい いんぼうが あるからです。その いんぼうとは なにか? こっそり ばくろしちゃいましょう。 それは ずばり、「こくご」としての にほんごを はいしすることです。このためには もちろん こくご・きょういくの はいしが ひつようです。 「きみの ことばづか

    こくご はいしろん じょせつ - やねごんの にっき
  • みたび自由について - やねごんの にっき

    tikani_nemuru_Mさんから、ふたたび反論を いただきましたので、おこたえします。 ●認められた時にだけ自由がありえる - 地下生活者の手遊び まず、はじめに確認して おきたいのは、わたしと tikani_nemuru_M さんの あいだには、「自由」ということばの とらえかたに、おおきな ちがいが ある、という点です。このことは、前回7月8日の記事でも かいたのですが、もう1度 確認しておきます。 わたしの いう「自由」とは、みとめたり 制限したりすることの原理的にできない、意思の自由です。 これにたいして、tikani_nemuru_Mさんは、みとめられる(べき)、あるいは制限されるべき「自由」とは なにか、そして、その根拠となるのは なんなのか、という水準の議論をされています(というふうに、わたしは理解しました)。 このちがいを ふまえたうえで 今回のtikani_nemu

    みたび自由について - やねごんの にっき
  • ふたたび自由について - やねごんの日記

    前回の記事について、いただいたコメントには きほんてきに おへんじしませんと かきました。しかし、気が かわりましたので、やっぱり かきます。 ひじょうに きょうみぶかいことに、わたしの文章を誤読した(と あえて いいます) ひとたちの ほとんどが、おなじポイントを みおとしているようです。ですから、全員には おへんじいたしませんが、わたしに たいする もっとも ていねいな反論記事を こちらで えらばせて もらって、わたしのかんがえを あらためて せつめいします。 ●他者がどこにもいない自由 - 地下生活者の手遊び tikani_nemuru_Mさんは、わたしは前回の記事のうち、つぎの ぶぶんを引用しています。太字にしているところは、元記事でも わたしが太字にしたところです。強調の意図を こめました。 いっぽう、ほんとうに こわいのは、反対に「ひとをころす自由」を否認するような かんがえか

    ふたたび自由について - やねごんの日記
  • 公務の執行を妨害する自由は たいせつだよ - やねごんの日記

    学生だったころ、しりあいから きいた はなし。 そのひとは 哲学科の 学生で、高校の倫理の教員免許をとるために、教育実習に いったのでした。たしか、カントかなにかを つかって、「自由とは なにか?」というようなテーマで、授業をやったんだそうです。 かのじょが いうには、実習さきの教師に「自由」についての授業をやりたいという計画を はなしたら、あらかじめ くぎをさされた、と。そのせいで、どうやって授業をくみたてたら よいものか、こまっちゃったよ、ということでした。 その実習さきの教師の いいぶんとは こうです。「とくに高校生たちのなかには、自由の いみを はきちがえるものが おおい。他人に めいわくを かけるのも自由だ、という あやまったかんがえを もっているものも すくなくない。だから、授業は きほんてきに あなたの やりたいように やっていいけれども、『自由には責任がともなうこと』また『

    公務の執行を妨害する自由は たいせつだよ - やねごんの日記
  • 2008-01-20 - やねごんの日記 汚染される世田谷

    大変だ! 汚染がじわじわと広がっているんだってよ。しかも、「市民生活の場」に! ●薬物密売:イラン人、学校近くの住宅街で白昼 - 毎日jp(毎日新聞) 市民の生活の場で公然と覚せい剤や大麻を取引−−。東京でも有数の住宅地である世田谷区を舞台に、薬物を密売していたイラン人の男が摘発された。客は会社員やOL。薬物汚染がじわじわと市民生活の場に広がっている実態が明らかになった。【精神医療取材班】 ああ、なんてこった。「東京でも有数の住宅地である世田谷区」が汚染されてしまうなんて。足立区でもなく江戸川区でもなく、「東京でも有数の住宅地である世田谷区」がじわじわ汚染されつつあるのだよ! そりゃ大変だ。 さて、この記事、なんか支離滅裂なのだ。上では「市民の生活の場で公然と覚せい剤や大麻を取引」と書いているが、記事の後段ではこう記されている。 現場の近くには小学校と中学校が1校ずつあり、取引場所は子ども

    2008-01-20 - やねごんの日記 汚染される世田谷
  • 「能力」について 2008-06-14 - やねごんの日記

    ほら、オレって すごいでしょ? ね、ね、ね、ね! わたくしはそういうふうに、しきりとアッピールしたいタイプの にんげんです。だからこうやってブログなんて かいてる、ってところもある。じこけんじよく、というやつですね。そりゃもう、ひとに じまんしたくて しかたがない。 いっぽうで、けっしてじぶんを大きくみせようとしない、そういうひともいます。いなかの年寄りに、そんなひとをけっこうみかけるように、おもいます。わたしの父も、そんなタイプのひとりです。父が、なにごとか じまん話をくちにするのを聞いたことがありません。それだけでなく、かれは、他人をほめる、ということも ほとんどしません。わたしは、父に なにか ほめられた、という おぼえがありません。 このようなタイプのひとは、まわりからは「くちベタ」と解釈されることがおおいし、わたしもそうおもっていました。しかし、かれらが「じまんしない」また「他人

    「能力」について 2008-06-14 - やねごんの日記
  • チカラのカゲン - やねごんの日記

    ふと おもったのですけど、わたしは30年あまり生きてきて、好敵手というのに であったことがありません。こんごも、そういうの、ありそうにないなあ。ライバルと きそいあって、おたがいをたかめあい、さいごに友情がめばえましたとさ、チャンチャン、みたいなの。こういう経験をせずに死んでゆくのは、しあわせなんでしょうか。それとも、ふしあわせなのでしょうか。 学校にいっていたころ、わたしはピンポン・クラブとゆうのに入っていました。もちろん、チームのなかにも、あるいは他校のチームにも、じぶんとおなじぐらいの実力のひとがいるわけです。まけたら、くやしい。でも、じゃあ勝ったら とてもうれしいのか、というと、そうでもない。むしろ、ただ「ほっとする」とゆーかんじ。いずれにしても、たいして きもちよくも、たのしくもないなあ、と、わたしはおもっていたのですよ。 わたしにとって たのしいのは、実力差のひらいた相手とやる

    チカラのカゲン - やねごんの日記
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