平素より「はてなハイク」をご利用いただき、ありがとうございます。 「お題でつながるミニブログ」としてご利用いただいていた「はてなハイク」は、2019年3月27日をもちまして、サービスの提供を終了させていただきました。 これまでご利用いただきましたユーザーの皆さまに深く感謝いたします。 誠にありがとうございました。 詳しくは下記をご覧ください。 http://labo.hatenastaff.com/entry/2018/11/19/113653 株式会社はてな
昨年末一昨年末『お前それサバンナでも同じ事言えんの?』というコピペが流行った。 ネット上では半分ジョークだが、弱者というのは、ほとんどこのような意味のことを『真面目に』言われ続けるのだ。 私はある身体障害を抱えるようになって10年以上の中年だ。 どの程度の障害かと言えば、 **** 週末。財布と携帯だけ持って家をでる。さあ、どこにいこう。とりえあず電車に乗って街に出よう。本屋と手芸屋には行きたいな。映画もいいかも。あ、こんなところに新しいお店ができてる。入ってみよう。 **** なんてことは、全く、出来ないレベルだ。少なくとも思いつきで外出することなど到底ムリである。 とりあえず街に出て、あとは気分で散策。ぶらぶらとウィンドウショッピング。 まだ健常者だった20代のころに、意識することすらなく当然のようにできていたことが、今は出来ない。 このような生活の苦労について、語る。 辛いことがあっ
kyoumoeさんのブログ記事で知ったのだが、京都亀岡暴走事故を起こした3人の「犯人」(運転手と二人の同乗者)の「本名」を「特定」したという情報がネットを駆け抜けていた。ただし、そこで「特定」された「犯人」の名前は6人分あった。 そこでツイッターで以下のようにつぶやいたところ、わたしには珍しくfavされることとなった。 3人の犯人の名前を「ネット」が6人分も暴いた件。少なくとも我々にはたとえ犯人であっても「社会的に抹殺する」権利はないし、ましてや無関係の人を殺人者扱いして責任取れるわけがない。 / “他人の名前を軽々しく書くな、クソ日本人どもが - …” htn.to/STE1ub — 松永英明@ことのはさん (@kotono8) 4月 25, 2012 ネットで流された情報 他人の名前を軽々しく書くな、クソ日本人どもが - 今日も得る物なし 昨日のエントリで2chにスレ立てた奴がいるんだ
tu-ta @duruta 堤 愛子さん:以前、食品汚染のPRビラの見出しに「首の曲がった子になるの、ボクいやだ」と大きく書かれているのを見て、私は身震いするほどの不快を感じた。これを書いた人は、首の曲がっている人の気持ちをどう考えているのだろうとhttp://bit.ly/h63oK4ミュータントの危惧 2011-03-28 12:00:28 tu-ta @duruta チェルノブイリ事故を受けた反対運動のなかで出てきた「障害者を産みたくない」というような言説。そして、その運動のなかで、それへの批判が明確に語られるようになったということを、福島原発事故を契機にする運動ではちゃんと継承される必要があると思います 2011-03-29 03:57:08 m.ueno @makiueno 女性の本心なんですが、ダメですか RT @duruta: チェルノブイリ事故を受けた反対運動のなかで出てき
以下の記事を読んだ感想です。メールにしようかと思いましたが、トラックバックにすることにしました。 (2008年4月24日)弁護士・未熟な人間・今枝仁:お詫びとお知らせ (2008年4月26日)弁護士・未熟な人間・今枝仁:人間・橋下徹 “人間・橋下徹”については、正義感が強く、不正に厳しい人物であると思います。悪い人ではなさそうだとは私も思います。話にきっちりヤマとオチを付けるところは、関西人として高く評価しています。ただ、普通のおじさん、おばさんも同じ様に正義感が強く、不正に厳しく、政治について熱弁しています。配慮に欠け、責任を取りたがらないところも、打算が働くところも、その辺のおじさん、おばさんと変わりません。誰だって自分以外のことには想像が及ばないもので、責任だって取らなくていいものなら取りたくないと考えるものですから、それが直ちに悪であるとは思いません。“人間・橋下徹”は正義感の強い
http://d.hatena.ne.jp/good2nd/20070609/1181371044 で、徳育より人権を教育する必要が、と言いましたが、実際に人権という考え方は学習を通じてでなければ得られないんだろうと思っています。「徳育」という言葉で語られる「思いやり」だとか「自己犠牲」とかいうものは、人間らしい生活を通じて、おそらく自然に獲得されていくものでもあるのでしょう(なぜか対象が国家にまで拡大されるような「自己犠牲」は別として)。少なくとも、進化心理学の本とか読むと、そういう意味での道徳性の「種」みたいなものは、ある程度はビルトインされているように見えます。これは例えば言葉を考えたときに、具体的な言語は学習されるとしても、その基盤となる能力そのものはビルトインされてる、というのに似ているかもしれません。 しかし人権という考え方は、いろいろな道徳文化に共通するというようなものではな
私が書いたのは感情であって理屈ではありません。私も理屈ではあらゆるテロに反対です。理屈では分かっていても感情はそれには従わないなんてことは当たり前でしょう。 私は、こういう感情が生じることを抑圧しようとする言論のほうに同意できません。 どうしてこういう感情が生まれるのかを考察するところから始めなければなりません。 ある人々にそういう感情が現に生まれていることを認識し、その背景を考察することは必要でしょうが、そしてある程度共感することも場合によっては必要かもしれませんが、しかし考察のためにその同じ感情に飲み込まれてしまう必要はないのではないでしょうか。私達は、かつて「自然な感情」「当たり前の感覚」と考えられてきたことを、これまでいくつも乗り越えてきたのではないでしょうか。たとえば差別的な感情は、ある時代の人々には自然に発生していたかもしれませんが、今ではそういう感情は以前ほど野放しではないと
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