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*歴史と_Land_of_Samuraiに関するmallionのブックマーク (6)

  • ょぅι゙ょっぽいのは単に土蜘蛛仕様なので身の丈小さくして手足長く侏儒に似たりという言説にしたがったまでです。ええ - zistorwalのわりと北のほう

    なんかもう結構前に「神話改竄とかで結構やりたい放題な藤原家はLoSにおける神知者的ポジションじゃないんだろうか?」とか思った時に描いた、最大の被害者ではないかと思われるところの巨勢姫明神の図。 春日のお山の来の祭神なのに、一休さんチックな引っ掛け問題に胡乱な答えをしたために、あっさり端っこの方に押しやられ、地垂迹が流行ったころの鹿曼荼羅に入れてもらえないというか黙殺されて、しまいには実は猿田彦でしたとか言う事にされる、あまりにあんまりな扱いなあたりが結構な萌えキャラでどうしようという感じです。 しかし、まぁ、この巨勢姫、ほぼ抹殺された神格だけあって実はよくわからない神様なんですが。 土蜘蛛の女祭としての巨勢祝が春日氏の氏神の巨勢姫になったんだけど、そのわりには巨勢氏は別にあるっていう。 えーと、単に巨勢っていう単語が当時はよく用いられた慣用句って、だけなんですかね。こー字面からするとt

    ょぅι゙ょっぽいのは単に土蜘蛛仕様なので身の丈小さくして手足長く侏儒に似たりという言説にしたがったまでです。ええ - zistorwalのわりと北のほう
  • 「最近の日本語は乱れている!」とか主張すると、なぜ国語学者はニヤニヤするのか。 - 小学校笑いぐさ日記

    なぞなぞです。 母には2回会ったけれど、父には会わなかった、というものなーんだ? ヒント:これは平安時代のなぞなぞです。 (「母には二度逢ひたれど父には一度も逢はず」『後奈良院御撰何曽』) こたえ:くちびる えーと、「なんでだ!」って話を説明すると長くなります。 (有名な話ではあるんですが) 半濁音(ぱぴぷぺぽ)を含む言葉の多くは外来語で、いわゆる「和語」には少ないことは、皆さんご存じと思います。 これはなぜか。 これは、日語の発音の変遷に理由があります。 日語では、古くは、「はひふへほ」という字を書いて、「パピプペポ」と発音していました。 (しかし、文字で説明するのが難しい話題だな) だから、「はは」という言葉を発音する時、実際の発音は現在の「パパ」に近くなりますから、唇が2回合わさるのです。 これがなぞなぞの答えの答え。 さて、もっと時代が下ると、「は行」は「ファ フィ フ フェ

    「最近の日本語は乱れている!」とか主張すると、なぜ国語学者はニヤニヤするのか。 - 小学校笑いぐさ日記
    mallion
    mallion 2008/09/01
    『古くは、「はひふへほ」という字を書いて、「パピプペポ」と発音していました。』『能とかの台詞回し(…)、成立した当初にはみんな普通に聞き取れた』『平安時代にタイムトラベルしたりすると日本語が通じません』
  • 「小海町」の名前の由来 | 小海町ホームページ

  • 【比丘尼・巫女】熊野比丘尼のように諸国を回って遊行・勧進した女性達の例を教えてください。…

    【比丘尼・巫女】熊野比丘尼のように諸国を回って遊行・勧進した女性達の例を教えてください。 書籍・論文の紹介大歓迎です。

  • 後南朝 - Wikipedia

    後南朝(ごなんちょう)とは、明徳3年(1392年)の南北朝合一後、南朝の再建を図った南朝の皇統の子孫や遺臣による南朝復興運動とそれによって樹立された政権、皇室の総称である。 この名称は江戸時代末期に儒学者斎藤拙堂によって付けられたもので、それまで名称は特に決まっていなかった。また後南朝という呼び方も戦後に広まったもので戦前までは定着してはいなかった。 概要[編集] 後亀山天皇 明徳3年(1392年)の南北朝合一時の約束(明徳の和約)では、天皇は北朝系(持明院統)と南朝系(大覚寺統)から交代で出す(両統迭立)ことになっていたが、応永19年(1412年)に北朝系の後小松上皇の次代として後小松上皇の皇子である称光天皇が即位したことをきっかけに、北朝系によって天皇位が独占されるようになったのに反抗して起こった。 南北朝合一の際に大和国に残った南朝の遺臣として、四条三位資行、日野右小弁邦氏、中園左右

  • 南朝 (日本) - Wikipedia

    建武政権の瓦解と北朝の成立[編集] 鎌倉時代に皇統は後深草系統の持明院統と亀山系統の大覚寺統のふたつに分裂する両統迭立が起こる。両統は皇位を争奪し、鎌倉幕府が仲裁していた。文保2年(1318年)に践祚して親政を開始した大覚寺統の後醍醐天皇は倒幕計画を企て、1331年に三種の神器を持って笠置山へ入り挙兵すると、幕府の奏請により持明院統の光厳天皇が践祚する。 1333年、反幕勢力の結集により鎌倉幕府が滅亡すると後醍醐天皇は京へ戻り、光厳天皇と正慶年号を廃して建武の新政を開始する。1335年(建武2年)、7月に関東で中先代の乱が起こると後醍醐天皇は討伐に向かった足利尊氏を黙認するが、乱を平定した尊氏は鎌倉に留まり建武政権から離反する。宮方は京都に進撃してきた尊氏を撃破する。翌1336年、九州落ちしていた尊氏は持明院統の光厳上皇から院宣を受けて再び東上する。宮方では新田義貞、楠木正成らを迎撃に派遣

    南朝 (日本) - Wikipedia
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