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ブックマーク / www.turkey.jp (1)

  • トルコの時代

    オスマン帝国は「エ号」の生存者の救助や遺体の収容に献身的な力をつくしてくれた大島村の人たちに対し、3000円(現在の6000万円相当)を贈った。感謝の大きさがあらわれた金額である。沖村長はこれを村民に分配することなく銀行に預け入れ、その利息を村全体のためになることに使った。 一方、日国内でも新聞社の呼びかけで義捐金が集められて犠牲者の遺族に送られたりしたが、個人でも募金を始めた青年がいた。山田寅次郎である。旧沼田藩の家老の子として1866年(慶応2年)に江戸で生まれた山田は、小学校をおえると英語ドイツ語、フランス語などを学び、16歳で茶道「宗偏流」の家元、山田家の嫡子になった。文才にも恵まれていた山田は、当時一流のジャーナリストたちと親交を結び、新聞に才筆をふるっていた。「エ号」の遭難事故の発生は、彼が24歳のとき。熱血漢の山田は、 「近い将来に日と修好条約を結ぶべく、アジア大陸

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