米メディアによると21日、ニック・メンザさん(米ヘビーメタルバンド「メガデス」の元ドラマー)がロサンゼルスで死去。51歳。ロサンゼルスのクラブで自ら所属するバンド「OHM」の演奏中に、心臓マヒを起こしたという。 メガデスに80~90年代に所属。アルバム「ラスト・イン・ピース」(90年)はグラミー賞にノミネートされた。同バンドはメタリカ、スレイヤー、アンスラックスと並ぶ「スラッシュメタル四天王」として知られる。(ロサンゼルス=平山亜理)
漫才コンビ「今いくよ・くるよ」の今いくよさんが28日午後、胃がんのため京都市内の病院で亡くなった。享年67歳。今いくよさん(本名・里谷正子)は吉本興業所属の漫才コンビ「今いくよ・くるよ」のメンバー。生年月日は1947年12月3日。高校の同級生だった今くるよさん(本名・酒井スエ子)と1971年に「今いくよ・くるよ」を結成。厚化粧がトレードマークのいくよさんはボケを担当していた。 今いくよさんは胃がんの治療のため、2014年9月17日より休業していた。抗がん剤治療を続け、11月5日に退院。自身の誕生日である12月3日には舞台復帰を果たしたが、その後がんの転移が判明。闘病生活を続けながら今月上旬までステージに立ったが、2015年5月28日に逝去した。葬儀・告別式の日取りは未定。 photo: gstatic.com
「スタンド・バイ・ミー」で知られる米R&B歌手のベン・E・キングさんが4月30日、米ニュージャージー州の病院で死去した。76歳だった。AP通信は弁護士の話として、「老衰で死去した」と伝えた。 米ノースカロライナ州出身。58年に「ドリフターズ」の一員となり、「ラストダンスは私に」などのヒットを歌った。ソロに転じた後の61年には「スタンド・バイ・ミー」を発表し、世界で大ヒット。後にジョン・レノンら多くのアーティストがカバーしたほか、同名の映画の主題歌となった86年にリバイバルヒットした。今年3月には米議会図書館が「20世紀に最も放送された曲の一つ」と評価し、保存対象のリストに加えた。 たびたび来日し、「日本は第二の故郷」と語っていた。東日本大震災のあった11年の秋には来日公演をしたほか、日本向けに独自アルバムを発売。「上を向いて歩こう」を日本語でカバーした。(ニューヨーク=中井大助)
富田倫生さん インターネット上の電子図書館「青空文庫」の世話人で、著作権の保護期間延長に反対を訴えつづけた富田倫生(とみた・みちお)さんが16日正午すぎ、肝臓がんのため岐阜県内の病院で死去した。61歳だった。葬儀は近親者のみで営む。 広島市生まれ。編集プロダクション勤務を経て、ライターとして独立。自著「パソコン創世記」が絶版となり電子版を作った経験から、電子テキストの共有サービスを構想、97年に仲間と青空文庫を始めた。2011年には著作権が切れた本を中心に登録数が1万点を超えた。 30代でC型肝炎を発症し、闘病しながら青空文庫の運営にあたった。近年は、著作権の保護期間を死後50年から70年に延長する動きに対し、「過去の作品を利用しにくくなり、文化の発展が阻害される」として反対運動に力を注いだ。著書に「本の未来」などがある。 最新トップニュース
山口は1967年にザ・ダイナマイツのギタリストとしてデビュー。その後に伝説のバンド村八分を結成し、後の日本のロックシーンに多大な影響を与えた。1980年代初頭には裸のラリーズにも一時在籍し、1989年にTEARDROPSとしてメジャーデビュー。TEARDROPS解散後はソロ活動を展開しており、2007年に体調を崩してからは闘病生活を送りながら断続的にライブを行っていた。 ※記事初出時、山口冨士夫の享年に誤りがありました。訂正してお詫びいたします。
It's impossible to overstate the influence of Peter "Sleazy" Christopherson, who died in his sleep yesterday, aged just 55. As a founding member of Throbbing Gristle, he was part of one of the most experimental and notorious British groups of all time. The first industrial band, their music covered everything from machine-like noise to almost quaintly melodic electro-pop. I can still remember the
中途半端な英語使いが英国からのニュースを東京で読み、あちこちふらふらうろうろ。時々嘘。 はてブ = http://b.hatena.ne.jp/nofrills Twitter = http://twitter.com/nofrills Twitterのログ = http://twilog.org/nofrills ◆「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月) ◆「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月) ◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください
MACHINE HEADのRobb FlynnからRonnie James Dioへの追悼メッセージ。「Dioは本当の紳士だった。MACHINE HEADは2007年の5月にHEAVEN & HELLの前座を務める機会に恵まれました。それまでRonnie James Dioに会ったり、一緒にツアーしたことがなかったので、大変光栄なことでした」 「アリゾナ州フェニックスでのツアー初日の晩、私たちはお祝いをしました、えー、結構heavyに。Dioの楽屋はセキュリティー軍で要塞化していたけれど、私はなんとか入り込んで挨拶しました。彼は私が誰だか分からなかったけれど、まるで私が旧友かのように接してくれました。それからは、彼がいつも私たちの楽屋に『Hi』と言いに顔を出してくれたり、give Dave shit about 'his San Antonio Spurs choking'、100ドルもす
Geezer ButlerからRonnie James Dioへのメッセージ。 「Ronnieと私、Wendyと私の妻Gloriaとの関係は、言葉なんかでは言い表すことが出来ないものでした。彼は友達、ミュージシャン仲間、バンドメイト以上の存在でした。私に魂があるとすれば、彼はその一部です。14年もの間会っていなかったのに、2006年に私たちを再び引き合わせたものが、神なのか宿命なのか運命なのか、なんと呼ぶのかわかりませんが、それを本当に信じています。最後のツアーをやろうというつもりだったのが、3つの大きなツアーと1枚のアルバムを制作するに至りました。私たちは共にはじけて、これまでになくエンジョイしました。運命がまた動き出したころ、私たちはもう1枚アルバムを作る話もしていました。 2009年の春から夏、南米とヨーロッパのツアーを行った後、2~3回に分けて北米をツアーする計画を立てていました。
最高裁の涌井紀夫(わくい・のりお)判事が17日午後1時13分、肺がんのため入院先の東京都内の病院で死去した。最高裁が18日発表した。67歳だった。通夜・葬儀の日程は未定。自宅住所は公表していない。現職の最高裁判事が死亡したのは1988年5月の高島益郎(ますお)氏以来。 涌井氏は兵庫県出身。京都大学卒で1964年司法修習生。66年に裁判官に任官し、東京高裁部総括判事や司法研修所長、福岡、大阪の高裁長官を経て、2006年10月に最高裁判事に就任した。 最高裁では裁判長として、韓国人の原爆被爆者が国に損害賠償を求めた訴訟で、07年に韓国人側勝訴の判決を言い渡した。08年には、住民基本台帳ネットワーク違憲訴訟で合憲判断を出した。
リーダーでJSFさんの記事で訃報に接しました。ちょっと言葉が出ないです。ありきたりですが、お悔やみ申し上げます。安全保障に強い興味をもったのが、キッシンジャー『外交』を読んだことがきっかけでした。古い時代はともかく、時事的な問題になると現代の兵器に関する知識が貧弱すぎて、困った覚えがあります。とりあえず、大型書店で軍事関係のコーナーで素人でもわかりやすそうな本ということで見て回った上で、某所の方にメールで江畑謙介さんの『兵器の常識・非常識』がよさそうに思えるのですが信用しても大丈夫でしょうかとお尋ねしたところ、「これだからど素人は」という苦笑を抑えているのが文面から伝わってきましたが、良書を選ばれましたねと返信を頂いて、むさぼるように読みました。 3年ほど前、江畑さんと直接お話できたのは貴重なご縁でした。パーティの際ですので、15分程度だっただろうと思いますが、誰も信じてくれないでしょうが
中国の元外交官、張香山氏死去=対日国交正常化交渉を担当 10月12日16時45分配信 時事通信 【北京時事】中国の知日派の外交官として、日本との国交正常化交渉などに当たった元中国共産党対外連絡部副部長の張香山(ちょう・こうざん)氏が10 日、病気のため北京市で死去した。95歳だった。告別式は16日午前9時(日本時間同10時)から同市の八宝山革命公墓で営まれる。 関係者によると、近年両国間で生じてきた摩擦や対立を憂慮し、政治問題の重要性を訴えていた。心臓病のため入院していたが、95歳の誕生日に静かに息を引き取ったという。 浙江省寧波市生まれ。1933年から日本に留学、東京高等師範学校(現筑波大学)で学び、日中戦争が始まった37年に帰国した後、中国共産党に入り、八路軍に参加。新中国成立後は一貫して党や外務省で対日関係に携わり、たびたび訪日した。
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