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思想と再読に関するmn_krのブックマーク (2)

  • 収益モデルというのは…… - finalventの日記

    私が言う話でもないは重々承知。 で、どういうモデルかというのもだけど、ようは「いつ?(儲かるの)」ということなのかな、と。 Googleなんて広告屋というのはそうだし、何やってんのあの気違いたち、もそうかもだけど。 で、その収益のスパンと技術による世界の揺さぶりの相乗みたいなものはありそうだ。 あと。 企業と公益というのはバランスのように見られたり、広告的に見られたりするが……。 がというのは、広義の公益に企業が内包されるのではないかな。これは、よくある左派のありがちな倫理的な立場ではなくて。 そうではなくて、公益的なものの剰余としてしか企業の利益が正当性を持ち得ないということがあるのではないか。と言うとこれはまた誤解のタネか。 公益=倫理、というのではなくて。 広義のサービスということか。 意外と現状の収益モデルっていうのは裁定によっていたりする⇒[書評]コークの味は国ごとに違うべきか(

    収益モデルというのは…… - finalventの日記
    mn_kr
    mn_kr 2009/07/17
    “公益的なものの剰余としてしか企業の利益が正当性を持ち得ないということ”|知財法=技術革新へのインセンティブとしての優位を国家が、国家間の協調で保護(Google問題)|国家=国家間の協定としての市場の原理性
  • スポンタなりに考える、宮台真司氏が旧世代なところ。: スポンタのポストモダンから見た『この世界』

    さて、シアテレに集う人たち。池田信夫先生。スポンタとしては、それぞれに思うところがある。だが、それを個別に指摘するのは面倒なので、「旧世代」と括ることにする。 唯一価値があるのは、『日社会が「儒教的な知識人」によって構築されてきた』という池田氏の指摘。だが、『「儒教的な知識人」によって構築されてきた戦後』の問題を解決するにあたって、『「儒教的な知識人」に含まれる学者』によって、新時代は構築できない。 やはり、宮台真司氏も池田信夫氏も、明確に「旧世代」として切り捨てなければ、戦後60余年で袋小路に入った現代を抜け出すことはできない。 ☆ 東京青年会議所の月例会のシンポジュウムを見たが、印象批評をすれば、登壇者たちは『志民』という『「武士道的な知識人」を求める』。だが、武士のような「平時の遊民」を養うような余裕を社会は持たないし、「養われているかもしれぬ武士」の精神は腐り、耀変し、暴発する可

    mn_kr
    mn_kr 2009/05/20
    “『日本社会が「儒教的な知識人」によって構築されてきた』という池田氏の指摘”|“モバイル性こそ、「対話」の本質である。 固定的なオーソリティーこそ、「対話の拒絶」”
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