――柄谷さんは、一昨年『坂口安吾論』と『柄谷行人書評集』を刊行されていますが、書き下ろしの御著書は、二〇一六年の『憲法の無意識』以来三年振りとなります。第一部のⅠ「柳田国男論と私」において、執筆までの経緯を詳しく語られています。『遊動論』の時のインタビューの際も伺ったのですが(『読書人』二〇一四年二月二八日号)、批評家としてデビューし、かなり早い段階で、「柳田国男論」に取り組んでおられます。それとほぼ同時期に、「マルクスその可能性の中心」の連載もなさっています。本書「あとがき」にもあるように、最初期に向きあった問題が、今回、柄谷さんの中に「回帰」してきた。マルクスについては、常に頭の中にあったと思いますが、柳田国男は、いわば後景に退いていた、あるいは意識の底に沈んでいたといってよいかと思います。それが、二〇一一年以来「回帰」してきたのだと。柄谷さんが援用されるフロイトの言葉を借りれば、「抑