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2010年12月、露店で果物を売っていた26歳の若者は、当局の嫌がらせに抗議して焼身自殺を図った。これがきっかけとなり、チュニジアでは腐敗した長期政権を打倒するため人々が立ち上がり、反政府抗議運動の波はアラブ世界全体に広まった。 しかし、「アラブの春」の発端となり、人々に抗議の火をつけた彼は、今や一部の国民から怒りすら向けられているのだという。 「誇りの象徴」から「呪われたもの」に 絶望のあまり彼がとった行動は、いまだにアラブ世界を揺るがしている。26歳の果物売り、モハメド・ブアジジの焼身自殺は、中東各地で革命の引き金となった。 チュニジアの首都チュニスには、彼の名がつけられた大通りがある。彼が住んでいたシディブジドには、地元政府の本部に面したところに、彼を描いた巨大な壁画がある。 彼は国家の腐敗と残忍さに抗議するため、自身に火をつけた。しかし、それから10年が経った今、チュニジアにおいて
中東のエジプトで「アラブの春」と呼ばれた民主化を求める大規模なデモが始まって25日で10年がたちます。デモによって独裁政権は崩壊したものの、その後、エジプトでは軍による事実上のクーデターを経て誕生した政権が批判的な勢力への締めつけを強めていて、再び強権的な体制に逆戻りする事態となっています。 エジプトでは10年前の1月25日、「アラブの春」と呼ばれた民主化運動が波及する形で大規模なデモが始まり、30年にわたって独裁的な支配体制を敷いてきた当時のムバラク政権が崩壊に追い込まれました。 その後、初めての民主的な選挙で大統領が選ばれましたが、2013年に軍による事実上のクーデターで追放され、今は、軍のトップだったシシ氏が大統領を務めています。 シシ政権は批判的な活動家を次々に逮捕するなど、強権的な手法で締めつけていて、デモの中心地だったカイロのタハリール広場は、10年の節目を前に、警察が厳重な警
10年前に「アラブの春」の反政府デモが広がるきっかけの焼身自殺をしたチュニジアの若者ムハンマド・ブアジジさんの肖像壁画(奥)。彼が自らに火を放った2010年12月17日は地元で革命の記念日となっている=チュニジア中部シディブジドで2020年12月17日午後、真野森作撮影 「この町はずっと罰を受けている。革命を最初に始めたからだ」。チュニジア中部シディブジド市。屋外市場で青果を商うムハンマド・ジェブリさん(46)は販売台にオレンジを並べながらそう話した。教員資格を持つが勤め先が見つからず、この仕事をずっと続けている。「革命前の社会は抑圧されていたが、生活は安定していた。今は悲惨だ。次は生きる糧を求めて新たな革命が起きるだろう」 2010年12月17日、友人の青果商ムハンマド・ブアジジさん(当時26歳)が同市中心部で焼身自殺した。10年前の友の死をジェブリさんはこう振り返る。「警官に何度も路上
エジプトで起こった「アラブの春」についてのドキュメンタリーと本の感想です。 まずドキュメンタリー www.nhk.jp エジプトでアラブの春を起こした若者たちが、今、何をしているのか? 10年前、若者たちは自由と民主を掲げ、政権を転覆させました。しかしその後の混乱が長引き、結局、軍部が政権を担っています。長引く混乱で国力は落ちていく一方です。 密着取材した一人の若者は、今は国会議員になり、体制側について仕事をしています。おかげで裕福な平和な生活を送っています。自由を語っていたのに、今は政権に批判的な言論を取り締まる立場です。「状況は変わったのだ」という言い訳をしていました。 この番組では、かなり批判的に撮影しています。 一方、反政府活動をし続ける若者もいます。政府側から逮捕されそうになり、家族をエジプトに残し、一人で亡命しました。戦い続けると言っています。 これを見た後は、自由対独裁の構図
「アラブの春」のきっかけとなった露天商の青年の壁画と荷車をかたどった彫刻が設置された広場。チュニジア中部の町シティブジッドで(2020年10月27日撮影)。(c)Fethi Belaid / AFP 【12月17日 AFP】「革命は、どんなことも可能だと私に教えてくれた」──チュニジアの反政府デモに参加した目まぐるしい日々を回想しながら、アメニ・ギマジ(Ameni Ghimaji)さんは言った。10年前、「アラブの春(Arab Spring)」の口火を切ったのが、チュニジアのデモだった。 チュニジアのジン・アビディン・ベンアリ(Zine El Abidine Ben Ali)元大統領は、波のように広がった反政府デモで失脚した最初の国家首脳だった。アラブの春によって、中東・北アフリカ地域を強権支配していた指導者のうち、ある者は政権を追われ、ある者は無残に権力にしがみつき、各国は数年に及ぶ動乱
エジプトで30年にわたって権力を握り、9年前に「アラブの春」と呼ばれた民主化運動で辞任に追い込まれたムバラク元大統領が死去しました。 ムバラク元大統領は軍出身で、1981年に当時のサダト大統領が暗殺されたあと、副大統領から大統領に就任し、その後、30年にわたって権力を握りました。 在任中は、「アラブの盟主」を自任し、欧米とも協調して国際的な影響力を強めたほか、アラブ世界でイスラエルと国交がある数少ない国としてイスラエルとパレスチナの仲介などに重要な役割を果たしました。 一方で内政面では野党勢力やメディアへの締め付けなど強権的な支配体制を続け、2011年に「アラブの春」と呼ばれた民主化運動によって辞任に追い込まれました。 その後、デモの参加者の殺害を指示した罪や公金を横領した罪などで起訴され、このうち横領の罪で実刑判決を受けましたが、殺害を指示した罪では無罪となり、3年前に釈放されていました
多くの国で王族や独裁政権による統治がなされ、民主的な政治とはあまり縁がないように思われてきた中東・北アフリカ地域で「アラブの春」と呼ばれる民主化運動が一気に広がったのは2011年。あれから10年がたった今、この地域では民主化が定着するどころか、内戦や政治の混乱が続いています。 民主化の動きは挫折してしまったのでしょうか。民主化運動に参加した活動家や中東に詳しい専門家に話を聞きました。 民主化を実現した国(チュニジア) アラブの春“唯一の成功例”。憲法の制定や民主的な選挙を実現。経済は低迷し、職を求めてヨーロッパに渡る若者も。 抗議デモをきっかけに混乱や内戦に陥った国(リビア、シリア、イエメン) リビアでは、40年以上にわたって政権を担ったカダフィ独裁政権が崩壊。国が東西に分裂して内戦状態に陥る。現在は国連主導の政治対話によってことし3月、暫定首相が就任し、混乱を抜け出そうとしている。 アサ
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中東の民主化は可能か アラブの春は行商人のチュニジア人青年が政府に抗議する目的で焼身自殺した事から燎原の火の様に瞬く間に燃え広がりました。 ペレストロイカがきっかけで共産圏の国々に民主化運動が広がり、ロシア始め中東欧の国々の政権が民主化したのと同じ様な展開を期待した人は少なくありませんでした。 しかし、アラブの春はその後、思いがけぬ展開を見せました。 民主化どころか、エジプトの様に専制君主によって民主主義が踏みにじられる国家もあれば、シリアやイエメンの様に大量の難民を出す内戦に突入した国もあります。 イスラム国の様なテロ組織も、アラブの春の結末に失望した若者たちが反政府運動に走った結果と言えるかも知れません。 中東には民主主義は根付かないのでしょうか。 この問いに対して英誌Economistが「Why democracy failed in the Middle East - And ho
意外と知らないエジプトの実情 ――エジプトといえばピラミッドがまずは思い浮かぶところですが、実際、今はどんな国なんでしょう。 八十恵さん(以降、恵) 今はリゾート地として知られるようになってきています。特に、紅海周辺が“モダン・エジプト”として人気ですね。 ――ナイル川や地中海でなく、紅海が熱いんですね。 恵 エジプトはほとんど雨が降らず、国土の9割が砂漠なので、水がある地域、つまりナイル川周辺にしか人が住めなかったんです。でも、最近の開発で砂漠地帯にも水が通るようになり、紅海周辺もモダン・エジプトとして発展していった、という感じです。私の故郷も、紅海に接したハルガダという街です。 ――小さいときは紅海で遊んだり? 恵 そうですね。今はリゾート地になっていますけど、私が小さかった時は本当に未開の地というか、田舎だったので、カイロに行った時、「ハルガダから来ました」というと、「あそこに人が住
10月13日に投開票が行われたチュニジアの大統領選の決選投票では、憲法学者のカイス・サイードが投票の70%を獲得し、イタリアのベルルスコーニ、フィリピンのドゥテルテ、トルコのエルドアンや米国のトランプなど擬えられていたナビル・カルウィを大差で破って当選した。9月に行われた1回目の投票で、保守派を退け、サイードとカルウィが決選投票に残ったことも注目に値する。 チュニジアは、国民が蜂起して2011年独裁者のベン・アリを倒し、アラブの春を先導した国である。テロが新しい政府を打倒しようとし、保守主義者が市民の自由を押し戻そうとしたが、チュニジア人は選挙を優先し、抗議を表すため街頭に繰り出した。少数派の権利を保護する法律を通し、市民グループは改革を呼びかけ続けた。アラブの春で唯一成功した国であり、それが今回の選挙でも損なわれなかった。アラブの春では、チュニジア以外は、エジプト、リビア、イエメンでは、
<イラクの反政府デモで大活躍するオート三輪トゥクトゥクは、エジプトでも「アラブの春」を支えていた> イラクでの反政府抗議デモは、発生から二カ月半を経て、いまだに沈静化の目途がたっていない。12月1日にはアーディル・アブドゥルマフディ首相が辞意を表明したものの、焼け石に水だ。 それどころか、デモ隊と政府治安部隊の衝突はますます激化している。タハリール広場とその脇のトルコ料理店に座り込みを続けるデモ隊に対して、政府の治安部隊は橋向こうから日々攻撃を続けるが、そこで使用される砲弾には缶ジュース並の大きさのものが使用されることもあり、頭を直撃されて死亡したデモ隊員の頭蓋骨X線写真がSNSで出回っている。催涙弾には毒性のある薬品が使用されているらしく、デモ隊には解毒処理を行うグループが活躍している。 衝突の現場で命を落とすだけでなく、誘拐、暗殺も横行する。デモ開始初期、女性の医療ボランティアが帰途何
反体制派指導者アレクセイ・ナワリヌイ氏の写真を掲げ、プーチン政権を批判する抗議集会の参加者=ロシア・モスクワ中心部のプーシキン広場で2021年1月23日、前谷宏撮影 広場を埋め尽くすデモの人波、叫ばれる反政権のスローガン、力で抑え込もうとする治安部隊、そして両者の衝突――。2021年1月、私は10年前の11年に中東・北アフリカのアラブ諸国で起きた民主化要求運動「アラブの春」の取材と記事執筆を続けながら、ロシアで現在進行形の大規模デモが気になっていた。 それは、私が13~17年にモスクワ支局に勤務し、その後もロシア・ウオッチを続けているからなのだが、やがて「両者の違いはどこにあるのだろう?」という素朴な疑問が沸いてきた。アラブの春ではエジプトなど数カ国で独裁政権が倒れたが、プーチン露政権は今のところそこまで追い詰められてはいない。 一体、なぜか? そして今後はどうなのか? ロシアにおけるメデ
チュニジアでベンアリ大統領が退陣した後も市民は抗議の声を上げ続けた(2011年1月) FINBARR O'REILLY-REUTERS <内戦とテロの嵐が吹き荒れ、腐敗体質と独裁が復活──大量の難民が発生したが自由を求める戦いは終わらない> 小学5年生のときだった。学校当局の指示で授業を早めに切り上げ、シリアのバシャル・アサド大統領をたたえる歌を歌いながら首都ダマスカスの通りを行進することになった。この日の集会には大統領その人も姿を見せた。 長い行事が終わり、家に帰ると、私は興奮気味に父に話した。「大統領はね、サルみたいに耳がでかかったよ!」 軍の将校だった父は笑うどころか、私に平手打ちを食らわせた。このとき父に言われたことは一生忘れないだろう。「壁、窓、ドア。あらゆる場所に耳がある。大統領やその周りの人たちについて、おまえが何か言えば、彼らは必ず聞いている。ひそひそ声だって聞き漏らさない
【12月17日 AFP】「革命は、どんなことも可能だと私に教えてくれた」──チュニジアの反政府デモに参加した目まぐるしい日々を回想しながら、アメニ・ギマジ(Ameni Ghimaji)さんは言った。10年前、「アラブの春(Arab Spring)」の口火を切ったのが、チュニジアのデモだった。 チュニジアのジン・アビディン・ベンアリ(Zine El Abidine Ben Ali)元大統領は、波のように広がった反政府デモで失脚した最初の国家首脳だった。アラブの春によって、中東・北アフリカ地域を強権支配していた指導者のうち、ある者は政権を追われ、ある者は無残に権力にしがみつき、各国は数年に及ぶ動乱や衝突、内戦に揺れた。 当時、ギマジさんは18歳だった。「将来の計画は何もなかったけれど、私たちは今よりも良くなるはずだということだけは確信していた」 チュニジアの反政府デモは2010年12月17日、
中東の民主化運動「アラブの春」の発端になった北アフリカのチュニジアで、大統領が行政府を解体し、議会最大勢力のトップは「クーデタ―だ」と対抗姿勢を鮮明にしています。 北アフリカのチュニジアは、アラブの春、いわゆる「ジャスミン革命」以降、唯一民主化に成功した国と言われていますが、新型コロナ感染拡大に伴うロックダウンや停滞する経済への反発などから、反政府デモが激化しています。こうした中、ロイター通信などによりますと、サイード大統領は25日、首相を解任したうえで行政府の解体と30日間の議会の停止を発表しました。 サイード大統領は、「国民は偽善行為に騙されてきた」としたうえ、今回の発表について、憲法で記された緊急事態における大統領の特別措置を適用したと説明。議会最大勢力のトップは、10年前にベンアリ独裁政権を打倒した革命を引き合いに、「革命に対するクーデターだ」と対抗姿勢を鮮明にしていますが、街では
──「人間はみな平等」は、決して世界共通ではないと。 『コーラン』に「服従しない女たちには諭し、それでも駄目なら臥所(ふしど)に置き去りにし、それでも効かないなら殴れ」という章句があります。それが女性への暴力、DVの正当化につながる。西洋近代的な価値観で生きる私たちにその女性観は異様であるように、彼らにとっては私たちの価値観が異様。 例えば、女性は覆いであるヒジャーブを着用することで暴力から守られる、という常套句。われわれは女性を守っているのだと。でもそれは、女性抑圧という西側からの非難に対し、イスラム教を擁護・正当化するための方便。現にエジプト人女性の99%はセクハラ被害の経験者です。ヒジャーブをしていても女性はセクハラ、レイプ、DVの被害に遭っている。 「アラブの春」は民主主義に対する戦い ──同じ言葉でも定義が違ってくる。 イスラム法における「公正」は、すべての人をその人にふさわしい
中東・北アフリカ地域に起こった民主化運動「アラブの春」の支配者たちのその後をまとめた図(2020年11月30日作成)。(c)VALENTINA BRESCHI, GILLIAN HANDYSIDE, JEAN-MICHEL CORNU / AFP 【12月17日 AFP】2010年末にチュニジアで発生した反政府デモをきかっけに、中東・北アフリカ地域に広がった民主化運動「アラブの春(Arab Spring)」。その発端となった露天商の青年の焼身自殺から17日で10年となる。当時の各国指導者らのその後をまとめた。 ■チュニジア ジン・アビディン・ベンアリ(Zine El Abidine Ben Ali)大統領は、1987~2011年にチュニジアを統治した。欠席裁判で禁錮35年の判決を受け、2019年に亡命先のサウジアラビアで死去した。 ■リビア ムアマル・カダフィ(Moamer Kadhafi
<アラブ諸国では今も「アラブの春」による混乱を引き起こしたのは当時のオバマ政権だという見方が根強い> 米大統領選が近づくにつれ、アラブ諸国では「第2のアラブの春」の可能性を指摘する声が上がり始めた。ある人は期待を、また別の人は警告の意味を込めてである。 選挙後にバイデンが勝利宣言を行うとアラブ諸国の首脳陣は相次いで祝意を表明したが、各国の思惑は複雑だ。なぜならバイデンが大統領に就任した場合、アメリカの中東政策はオバマ政権時のような、ムスリム同胞団をはじめとするイスラム主義者やイランへの融和路線に転じるとみられているからである。 2011年からアラブ諸国を席巻した「アラブの春」は一般に「民主化運動」と呼ばれるが、それは実態を描写する名称としてはふさわしくない。なぜならそれはチュニジアやエジプト、リビアなどで独裁政権を打倒したものの、実際には全く民主化をもたらさなかったからである。 チュニジア
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