1997年8月23日 朝まで生テレビ「誰のせいだ! ニッポン」を見た。 新聞のTV欄でタイトルを見て、フリートークの状況論をやるのだろう、例によって例の連中が出演するのだろうと想像した。 果たしてその通りだった。 司会は田原総一郎、レギュラー陣からは小沢遼子や舛添要一らが参加している。パネラー席片側に、彼ら年長世代の論客が並び、もう片側に「例の連中」が坐っている。 岡田斗司夫、宮崎哲弥、藤井良樹、切通理作といった「30代(「若手」)文化人」である。 「世代でくくられたくない」という云い方がぼくは嫌いである。くくられたかろうとなかろうと、「世代」というものは確かに存在するし、「世代」から自由であることは(とくに時代状況を語る「論客」といった人種にあってはなおのこと)難しいからである。 現に、彼ら30代論客たちは、彼らの世代独特の状況認識をおおよそ前提として共有した上で物事を論じている。彼らと
論争する気がありません 1997年8月25日 先日、宮台真司とその周辺の「30代文化人」を批判する論文を書いたら、「ちっとも論文の態をなしていない」「おまえは物事をきちんと論じる気がないんか」という批判をいただいた。どこからいただいたかというと、自分で出したのである。 自己批判に応じよう。 論じる気は、ない。 考えてもみよ。ぼくが宮台真司や浅羽通明や岡田斗司夫や宮崎哲弥や……といった30代論客たちに真正面から論争を挑んだとして、勝てると思うか? 勝てるわけがない。 ぼくの標榜する立場が間違っているから勝てないのではない。論争技術がないから勝てないのである。 それでは論争技術があれば勝てるのか? 勝てる。 ではなぜ技術を磨く努力をしないのか? 努力で技術が身につくわけではない。技術を身につけるために必要なのは「環境」である。 環境? しかり。こちらのレベルに見合ったほどよい論争相手が探せばい
小熊英二さんに聞く(上) 戦後日本のナショナリズムと公共性 『七人の侍』をみて、「これが戦後思想だな」と思った 「つくる会」に対抗したかった ――近著『〈民主〉と〈愛国〉』は大作ですが、小熊さんにこれだけの大著を書かせた動機はなんだったのですか。 ★前著の『〈日本人〉の境界』で戦後沖縄の復帰運動を書いたこととか、いろいろありますけれど、一つには90年代に「新しい歴史教科書をつくる会」が出てきたり、加藤典洋さんの『敗戦後論』をめぐる論争が盛り上がったりしたことです。私にいわせれば、あれは「戦争の歴史認識を論じる」というかたちをとって、「戦後という時代をどう考えるか」を論じていたといってよいと思う。「戦争」は「戦後」のネガであるわけですから、「あの戦争をどう位置付けるか」は、「戦後日本をどう位置付けるか」とイコールであるわけです。 しかし当時の私の知っている範囲から見ても、議論の前提になってい
マンガ批評というジャンルを確立させたのは、まちがいなく夏目房之介氏の功績だ。批評としてのクオリティを保ちつつ、エンターテインメント性をも兼ね備えた夏目氏のマンガ論は、マンガについて語ることの面白さを一般に認知させたのみならず、元となるマンガ作品そのものの地位をも向上させた。その夏目マンガ論の集大成とも言うべき『マンガの力』をまとめた氏は、これからのマンガの方向性をどうみているのか。いまや海外のメディアからも注目される稀代のマンガ伝道師=夏目房之介が、90年代のマンガをめぐる状況について、マンガ作品の著作権問題について、行き詰まりをみせるマンガの市場について語った。 ■マンガ市場の飽和がマンガ批評の定着をもたらした ――『マンガの力』はマンガ文庫などの解説として書かれた文章が中心ですね。小説やノンフィクションでは文庫解説を集めた本は少なくないけれども、マンガ文庫の解説を集めた本は珍しい。新作
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