明治45年7月30日、明治天皇が崩御し、大正天皇が即位し、大正と改元された。 まず、大正15年間のわが国の議会政治を総括的にまとめてみよう。一言でいえば、デモクラシー運動を中心として展開されたといえる。明治40年代から大正年間に至る衆議院の職業別構成で、その原因がわかる。 農村を代表する議員が減少し、都市を代表する工業、会社員、弁護士、著述業、新聞記者の議員が増加した。第1次世界大戦が介在する大正3年から同7年の間に、都市関係議員が農村出身議員の数を凌駕したのが、大正の議会政治の特徴であった。 これらの都市商工業の利益を代表する政治勢力が、藩閥官僚が中心となって動かしていた政治を、衆院を中心とする政党の力によって動かす政治に変えたのが、大正の議会政治であった。 彼らは、時として国民大会と称する政治的デモンストレーションを催し、マスコミや民衆と一緒になって、政治的要求を実現させていっ
■政党政治の退廃 昭和天皇が即位された大正15年12月25日、即日「昭和」と改元された。昭和元年は7日間しかなかった。政界では政党間で互いに相手の汚職・腐敗をあばき合う、泥仕合いがつづけられていた。 新天皇のもと公正な政治を行うべく、憲政会の若槻首相の呼びかけで、田中義一政友会、床次竹二郎政友本党両総裁と党首会談を開き申合せを行ったが、憲政会と政友本党の合同密約が表面化する。政友会は震災手形問題で若槻内閣を追及し、台湾銀行問題に発展し昭和2年4月17日、若槻内閣は総辞職する。 全国で金融恐慌が起こる中、後継首相に政友会の田中義一が指名される。田中内閣は金融恐慌への緊急措置を、政界引退していた長老高橋是清を大蔵大臣として使う。田中内閣のもう一つの緊急課題は、対中国問題であった。居留民保護を名目に日本軍が山東省に出兵した問題である。「対支政策綱領」を決めたが、国際社会から帝国主義的政策と
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